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シリーズ「AA研」は何をするところ?:外川昌彦教授『岡倉天心とインド-「アジアは一つ」が生まれるまで』日本フェノロサ学会特別功労賞受賞記念インタビュー

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東京外国語大学のキャンパス内にはさまざまな施設があります。そのなかで、学生のみなさんにとって立ち入る機会が少ないのがアジア?アフリカ言語文化研究所(略称「AA研」)ではないでしょうか。在学生から「謎の施設」と思われているAA研は、アジア?アフリカの言語と文化に関する国際的な研究拠点です。そこでは国内外の研究者と共同で、アジア?アフリカ地域を対象に人文学を基盤とする共同研究活動が幅広く展開されています。このシリーズでは、AA研の多様な研究活動の一部をご紹介していきます。

今回は、著書『岡倉天心とインド-「アジアは一つ」が生まれるまで』(慶應義塾大学出版会、2023年)に日本フェノロサ学会より特別功労賞が授与された外川昌彦教授に、ご著書とご自身の研究活動とのつながりを伺いました。

———『岡倉天心とインド-「アジアは一つ」が生まれるまで』の日本フェノロサ学会特別功労賞(ビゲロー賞、2024年9月)の受賞、おめでとうございます。まずは、本書を書かれたきっかけを教えてください。

ありがとうございます。私は、1992年にインドに留学して、現地の大学で農村社会の宗教とカースト制度について博士論文をまとめたので、インドには5年程滞在しました。その間に滞在先の人々が、1902年にインドを訪れた岡倉天心が、ベンガルの知識人や芸術家と交流を深めたことを、大切な記憶として語り伝えていることを知りました。日本では、それをどのように伝えているのかと質問されて、その時にはちゃんと答えることができず、いつか取り上げられたらと思っていました。

岡倉天心(1863-1913)は日本の思想家?美術史家で、外大の前身の東京外国語学校の創設期の学生でした。英語での読み書きが堪能で、日本文化を紹介する英文著作『茶の本』(The Book of Tea, 1906年)などで、近代日本の代表的な知識人として国際的に知られています。廃仏毀釈や文化財の海外流出で荒廃した文化遺産の保護に努め、東京美術学校や日本美術院では日本美術の復興に取り組みました。インドでは、ちょうどその頃、植民地支配に対する民族意識が高まり、インドの国民文化の復興運動が展開されていました。

カルカッタ(現在のコルカタ)を訪れた岡倉は、宗教改革運動家スワーミー?ヴィヴェーカーナンダやノーベル文学賞詩人ラビンドラナート?タゴールらと意気投合し、帰国後は弟子の日本画家横山大観や菱田春草をインドに派遣するなど、互いに交流を深めます。しかし、その9か月間のインド滞在の記録は断片的で、インドで実際に岡倉が何をしていたのか、日本では長らく「謎」とされていました。

インド西ベンガル州の調査村でのヒンドゥー教徒の村人と(1994年9月17日)

———インドに興味を持ったきっかけは何ですか。

高校生の頃にタゴールの作品『歌のささげもの』を読んで、西洋の文学でも日本の文学でもなく、しかし、そのどちらにも通じるようなタゴールの作品が、ノーベル賞を受賞して、広く知られるようになったのは何故だろうと、興味を持ちました。また、フランスの哲学者アンリ?ベルクソンやアメリカの宗教学者ウィリアム?ジェームズなどの西洋の思想家が、その学問的な探求の中で、ラーマクリシュナやその弟子ヴィヴェーカーナンダなどのインドの宗教思想に関心を向けているのを知り、インドのヒンドゥー教やヒンドゥー社会の問題に興味を持ちました。

当時のインドの貧困問題は深刻でカースト制度などの社会問題もあり、隣のバングラデシュは1971年に独立した直後で、まだ戦後の混乱と飢饉の脅威にさらされていました。タゴールやヴィヴェーカーナンダに見られる豊かな宗教文化と、貧困や宗教紛争のような社会問題が同時に見られる社会ということで、インドやバングラデシュなどの南アジア世界について興味が広がり、訪れたいと思うようになりました。

———大学ではどのような活動をしていたのでしょうか。

大学生の時には、それまで書物などで見聞きしていたことを実際に確かめてみたいと思い、アルバイトをしながら、休みになると色々な国を訪れました。当時は身の回りの物をすべてリュックに背負って歩くバックパッカーが流行っていて、どんな国の安宿街に行っても、自分と同じような日本人の若者に出会うことができました。

その中では、やはりインドでの体験が、強く印象に残りました。インドは、今では経済発展をして、首都ニューデリーなどは日本とも変わりのない大都会になっていますが、当時のカルカッタなどは、まだ下町的なベンガル人の情緒が色濃く残る街で、よそ者の外国人でも気が合うとすぐに親しくなり、食事に招かれたり、家族を紹介されたりという感じで、とても懐の深い所がありました。

そのカルカッタ滞在中に、親しくなった方がシタール奏者を連れて来日することになり、大学の学園祭に合わせて、インド音楽のコンサートを開きました。この時には、インド文化研究会というサークルを作り、色々な仲間に手伝ってもらいました。ネットではなく、レコードとカセットテープで音楽を聴いていた時代なので、生のインド音楽のコンサートはとても珍しがられました。

こうして、大学3年生のゼミを選ぶときに、自由に海外でフィールドワークができると聞いた文化人類学を選び、南アジアや東アジアとの比較から日本の宗教文化を研究されていた鈴木正崇先生のゼミに入れて頂きました。そのまま大学院に進み、日本の宗教民俗学と修験道の宮家準先生、宗教人類学の吉田禎吾先生の指導を受けました。

———本書の文化人類学との関係について教えてください。

本書は、芸術の問題に先鞭をつけた人類学者アルフレッド?ジェルのエージェンシー論を用いて、英領期インドの美術運動を分析しています。日本では、インド近代絵画の作家としてラヴィ?ヴァルマーが良く知られています。西洋画の技法でヒンドゥー教の神々を生き生きとした人間的な姿で描いて人気を博し、日本でもインド美術を紹介する美術館や博物館で見ることができます。

それに対して、ベンガル美術派の作家たちは、西洋画の模倣には飽き足らず、インド人の手によるインド独自の新たな表現法を追求しました。ちょうどその頃に、岡倉天心や横山大観はカルカッタを訪れて交流を深め、互いの芸術運動に影響を与えます。その植民地支配に対抗する芸術運動の意味に、人類学的な枠組みから光を当てた研究は初めてだと思います。

もうひとつは、岡倉のインド訪問を、単身で現地に長期滞在して、人々との対話を通して現地社会を理解する、人類学的なフィールド研究の観点から評価している点です。

岡倉は、インドでの滞在を通して、自立した民族文化を探る現地の人々の多様な試みを発見します。それと対比されるのが、戦前のアジア主義者として知られる大川周明です。岡倉の講義を聴いてアジアの現状に触発された大川は、戦前の日本の代表的なインド研究者になりますが、しかし、自らはインドを訪れたことはありませんでした。インド社会の捉え方には、そのため岡倉とも微妙な違いが見られ、最終的には、大東亜共栄圏のイデオローグとして日本のアジア政策に関わってゆきます。

岡倉は1873年に東京外国語学校で学び、文部官僚として頭角を現しながら、挫折をして野に下ります。その中で、たまたま訪れたインドが、岡倉にとっての起死回生の体験となりました。徒手空拳で訪れたインドで、自らのアジア認識を捉えなおしてゆくという岡倉の経験は、フィールド調査から現地の社会や文化を理解する文化人類学的な方法という意味でも、ひとつの先駆的な事例になるのではと考えています。

北インドのデーオバンド学院にてマドラサ神学校の学生と(2004年8月16日)

———最後に、今回の受賞についての感想は。

本書は、直接にフェノロサについて取り上げた研究ではなく、私は学会員でもなかったので、そのような本書に思いがけず賞を頂いたことは、とても貴重で得がたいものに感じています。自分の知らない所で、けれど自分が関心のあるテーマについて興味を持って下さる方がいるというのは、これから研究を続けてゆく上でも、とても励みになる出来事になりました。

人文学系の研究は、社会の要請に応えることがますます求めれられる時代になりましたが、それでも自分が興味を持っているテーマを追い続けることの大切さを、伝えられたらと思っています。

日本フェノロサ学会の授賞式(2024年9月21日)

日本フェノロサ学会?学会賞選考理由

https://www.fenollosa-japan.com/award.html

<目次>

『岡倉天心とインド―「アジアは一つ」が生まれるまで』慶應義塾大学出版会、2023年

序章

第1章 岡倉天心のインド体験     

第2章 越境するアジア知識人―女神像が映す日本とインド             

第3章 岡倉天心の「転向」-[1] 社会進化論の克服

第4章 ヴィヴェーカーナンダと日本―託された言葉    

第5章 インド社会像の探求

第6章 反響するインド美術史観   

終章 切り開かれた地平―多様な「アジア」へ


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