シリーズ「世界を学ぶ、世界を生きる」①
「世界を学ぶ、世界史を学ぶ」林佳世子、小川幸司
研究室を訪ねてみよう!
東京外国語大学では2023年度の1年間に、読売新聞立川支局との共催で、連続市民講座「世界を学ぶ、世界を生きる」が開催しました。全11回のうち第2回以降は、東京外国語大学出版会から刊行された11冊の本を取り上げ、著者や編者、訳者が講演しました。
2023年4月15日に行われた第1回は「世界を学ぶ、世界史を学ぶ」をテーマにした講演会でした。知を探求する大学での歴史研究と、その知を教授する高校での歴史教育という区別が、いま「歴史実践」という新たな枠組を通して問い直されはじめています。トルコ地域研究が専門の林佳世子先生と、高校歴史教諭の小川幸司先生が、それぞれの立場から歴史実践の可能性について話しました。その講演を紹介します。
林 佳世子(はやし かよこ)
東京外国語大学長。専門は西アジア史、オスマン朝史。著書に『オスマン帝国の時代』(山川出版社)、『興亡の世界史 10 オスマン帝国500年の平和』(講談社)。共編著に『イスラーム書物の歴史』(名古屋大学出版会)、『岩波講座 世界歴史 第13巻 西アジア?南アジアの帝国 16?18世紀』(責任編集、岩波書店)などがある。
小川 幸司(おがわ こうじ)
長野県伊那弥生ケ丘高等学校教員。専門は世界史。東京大学文学部西洋史学科卒業。長野県各地の県立高校などに勤務し、文部科学省の新科目「歴史総合」立案に参画。2023年3月まで長野県蘇南高等学校校長。著書に『世界史との対話 70時間の歴史批評』全3巻(地歴社)、『歴史総合を学ぶ三世界史とはなにか 歴史実践」のために』(岩波新書)、共編著に『岩波講座 世界歴史 第1巻 世界史とは何か』(責任編集、岩波書店)など多数。
人を育てる場としての歴史実践
林 佳世子
歴史教育と歴史研究
東京外国語大学は、世界諸地域の深い知識を持って日本と各地の架け橋となるような人材の育成を行っています。世界諸地域についての知識の出発点には、当然ながら言葉と歴史があります。大学の名前から、言葉が中心と思われがちですが、同時に地域の人々がどういう歴史をたどって現在を生きているのか、世界の人々が自分たちをどのように定義しているのか、そういうことが地域理解の要になっていると考え、教育研究の体制を作っています。
このように世界の諸地域の歴史、あるいは日本を含む世界の歴史は、本学の教育で最も力を入れている部分です。そのため入試では、世界史を中心とした歴史科目を課しており、高大接続連携や、毎年行っている「世界史セミナー」などを通じて高校での歴史教育の現状にもコミットしています。
これまで高校の世界史というと、一般には暗記科目と思われており、あまり評判がよくありませんでした。そのため、かねてより歴史教育を暗記科目から脱却させ、改善していくために、歴史の流れや関係性を重視する教育が提起されてきました。
こうした流れを受けて、高校の歴史教育では、2023年度からは自ら問いを立てて考えることを重視する「歴史総合」という科目が、2023年度からはその延長線上で「世界史探究」「日本史探究」という新しい科目が始まりました。
そうした歴史教育に素材を提供するのは歴史研究です。歴史学?歴史研究は19世紀、ランケというドイツの歴史家が定義して以来、史料批判を通じて事実はどうだったのかを明らかにする学問として成立してきました。ですが、事実の連鎖が歴史というわけでもありません。しかし、ともすれば、事実を明らかにすること自体が目的化されてしまうという傾向がありました。研究が進んで細分化、専門化すればするほど、重箱の隅をつつくような研究に見える場合もあり、広い文脈の中で考える視点が見失われがちなことは確かです。
また、文脈を意識して研究する際にも、一つの国や民族の文脈での説明に集中することによって、現実では国家や民族を横断して形成されているはずの歴史が、互いに交わらない短冊状のナショナル?ヒストリーとして分断化されてしまうという批判もありました。こうした問題意識を受けて、国や民族にとらわれず、地域を超えて歴史の動きの関連性を問い、公式の民族や国家にとらわれない歴史を考えるグローバル?ヒストリーという関心が生まれてきました。記憶や感情など、歴史の中で生きた一人ひとりに紐づけられるような歴史研究の試みが、この2、30年来、活発になっています。
一方で、過去の出来事を史料や根拠に基づいて明らかにするという歴史学の枠組そのものは、あまり変わっていないようにも見えます。また、歴史教育との関係では、歴史研究の専門家が、専門家ではない人にその事実を教えるというスタイルが依然主流です。この考え方を前提とすると、歴史教育は歴史学に従属化され、専門家の成果が教授されるべきであると理解されることになります。歴史学が明らかにした揺るぎない事実を知らない人に教えるのが歴史教育となり、結果として世界史が事実を覚える暗記科目になってしまうのです。
このような現状をふまえ、新たな歴史教育のあり方を提唱しているのが小川先生たちなのだと思います。提唱されているのは「歴史実践」です。先生の書かれた「〈私たち〉の世界史へ」(『岩波講座 世界歴史 第1巻 世界史とは何か』所収)にあるように、研究により実証的に明らかになった事実を絶対視せずに、自分のこととして考えたり、昇華したり、異なる立場の人と対話したりすることなしには、歴史の実践は成り立ちません。歴史実践というのは、教える?教えられる中で人が成長する歴史の学びです。そのために素材を提供するのが歴史の研究であり、目的は歴史実践、人が育つ場としての世界史教育であるという、発想の逆転が求められているのです。
トルコ地域研究を例に
地域研究の場で歴史を扱うと、これまでお話ししたことを実感するシーンが多くあります。重箱の隅をつつくような研究成果を話しても、学生には興味を持たれないので、特定の地域あるいは広く世界の現在を理解する際に必要な歴史の解釈、歴史の捉え方を話します。本学では歴史実践の場がいろいろな国や地域をめぐって展開されていますが、ここではトルコの歴史を具体例としてご紹介します。
トルコ地域研究において、「トルコ人」とはどう定義されるのか。民族意識は、ある定義が共有されることで生まれるものといえます。現在のトルコ共和国におけるトルコ人の公式的な定義では、トルコ人とは中央アジアに生まれて西へ移動してきて、イスラム教を受け入れ、アナトリア地方(現在のトルコ)に定着してオスマン帝国などを建国し、その後解体して、アタチュルクにより助けられて独立を勝ち取り、現在もアナトリアに住んでいる人々を指しています。学校教育では日本の中学3年から高校2年にあたる学年でこのストーリーを学び、高校3年で「近現代のトルコと世界」として、第一次世界大戦以降の世界とトルコ共和国の歴史を並行させながら学びます。
ここで注意したいのは、これは一つのストーリーであり、文化的な産物であるということです。中央アジアで始まり、イラン、イラクを経てアナトリアに至るという、ユーラシアを縦断するようなトルコ人の歴史を描いたこのストーリーは、トルコ共和国で確立したものですが、オルタナティブとしては、地域としてのアナトリアの歴史も考えられます。その場合は、紀元前数千年の、新石器時代からの古い文化を持ち、ヒッタイト、イラン系の王朝、ギリシア、ローマ帝国、ビザンツ帝国などが展開した地域の歴史のストーリーとなるでしょう。
こうした地域としてのアナトリアの歴史は、トルコ共和国での歴史教育では簡単にしか触れられません。トルコの歴史は、「トルコ人」の歴史だけでなく、アナトリアの歴史というストーリーからも理解できるにもかかわらず、実際には前者のみ、つまり移動してきたトルコ人の歴史としてしか教育されていないのが現状です。
この結果、トルコ人以外のアナトリアの民族、即ちクルド人やアラブ人、ギリシア人やコーカサス系の人々の存在には無関心です。また現在のトルコ人を考える際には、オスマン帝国が後退して滅亡する過程で、現在のボスニア、セルビア、ブルガリアなどのバルカン地域に暮らしていたイスラム教徒が、「イスラム教徒=トルコ人」と見なされ、アナトリアに移住を余儀なくされた歴史もふまえる必要があります。いまのトルコ人といわれる人たちには、この時期に移住させられて、20世紀に他の民族からトルコ人になった人々も含まれているのです。
反対に、アナトリアにいたキリスト教徒が非トルコ人とされて追放された歴史もあります。東アナトリアにはトルコ語やクルド語を話すアルメニア教徒が暮らしていましたが、20世紀初頭には「アルメニア人」として殺害されたり追放されたりしました。トルコ語を話していたギリシア正教徒は「ギリシア人」とされ、隣国のギリシアに追放されました。
このように民族ごとに国をつくる民族国家形成の歴史は、いまでもこの地域に影を落としています。しかし教育の場では、過去の矛盾には蓋をして、「移動してきた私たち」というトルコ人意識がトルコ共和国の公式の見解として定着しています。
対話を重視する
トルコ地域研究を学ぶ学生たちは、知識としてこの複雑な様相を学びます。つまり、民族を前提とした歴史において生じる矛盾や対立する解釈、たとえばトルコ民族主義とギリシア民族主義、クルド民族主義、アルメニア民族主義の矛盾や対立、こういった複数の民族主義史観の交差が、国家や民族主義の主張を支えるバックボーンになっているということを理解しなくてはいけません。一人ひとりの人間は、実際には、切り裂かれるアイデンティティを生きているかもしれません。こうした現実を肌感覚で体験していくことが重要であると私は思います。
この大学ではトルコ語も学ぶので、トルコ共和国中心の歴史観に傾きがちですが、学ぶ過程で一つのイデオロギーやストーリーに安易に一体化しないための批判的な意識づけをすることが必要です。そのための手段として、矛盾した記述に着目して考えたり、個人のライフストーリーを追ってみたり、統計的なデータに触れるなどの教育の実践を試みてきました。トルコからの留学生を交えた教室でもあるため緊張を強いられますが、学生からの反応や意見を受けて、私自身も多くの学びを得ることができました。
歴史実践が人を育てる場になるという、いまの高校の世界史教育の改革の方向性に深く共感するのはこのためです。実際に東京外国語大学の学びは、そういう歴史実践の集合体であるのではないでしょうか。地域を知り、そこに生きる人を知るというのは、それぞれの地域の人や歴史を知ることに他なりません。しかし、それが一筋縄ではいかない。矛盾したり対立したりするストーリーがあるのは当然で、それが実際に武力闘争や何らかの火種になっています。そうした現実と向き合い、自身で考え、そこに生きる人々とどう付き合っていくのかを模索すること。そして、歴史の中で起きた出来事、歴史の中で生きた人たちとのあいだに距離を置かずに自分のこととして考えること。対話を重視する歴史実践の方法は、大学の地域研究において歴史を扱う際にも大切であると感じています。
鳥の目?蟻の目で人間の行為主体性を見つめる
小川 幸司
歴史総合の登場と問題点
2023年度に高校では「歴史総合」という科目がスタートしました。明治以降、中等教育史上初めて、世界史と日本史が統合された形で教えられようとしています。網羅主義を脱却して、単元学習の形で近現代史を中心に学ぼうということになりました。旧学習指導要領では、世界史は2単位のAか、四単位のBが必修でしたが、新しい要領では、歴史総合、地理総合、公民科目である公共の3つが必修になりました。
週に2回の2単位はそれほど多くはありませんので、歴史総合では、どの時代と場所から始めるのかが問題となりました。時代としては、18世紀から19世紀が最初の焦点です。アメリカ独立革命、フランス革命、産業革命の前提として18世紀のアジアといったヨーロッパではない地域の経済発展を教え、その上で産業革命、市民革命にいき、「近代化と私たち」という視点から本格的に始めます。続いて20世紀前半です。1945年で区切らずに、第一次世界大戦から1950年ぐらいまでを一気に扱います。最後に20世紀後半です。3つの焦点で世界史と日本史をいっぺんに扱います。たくさんの資料や問いを教科書に盛り込むようになり、生徒自身が「問い」を設定して歴史を探究することが目標とされるようになりました。
「問い」を重視するといっても、多くの場合は教科書のどこかに答えが書いてあるからと、結局生徒が教科書を読むだけになってしまいます。教員も生徒たちの議論をファシリテートしてまとめていく訓練を、十分には積んでいないので、最終的に「人それぞれ、いろいろな意見があるよね」という形で終わらせがちになります。ですので、まず「いかに学ぶか」をもう少し歴史学の方法論を通じて知の理論として教員が学び、それを生徒に共有することが大事になると思います。そのうえで「何を学ぶか」を再構成することが求められるのです。
いかに学ぶか
「〈私たち〉の世界史へ」という論考のなかで、歴史家である遅塚忠躬の『史学概論』や人類学者保苅実の『ラディカル?オーラル?ヒストリー』などを参考にして私なりに整理したのが、歴史実践は6つの段階に細分化できるのではないか、ということです。それは実証すること、解釈すること、批評すること、叙述すること、対話すること、想像することです。この6つの営みの複合体として、私たちの歴史実践という営みがあります。
私は今年の最初の授業の冒頭で、この授業は教科書の丸暗記ではないと強調し、実際に起こった歴史があったとして、それを記述した歴史叙述がたくさんあることを生徒たちに説明しました。一次史料といわれるものも、それ自体が歴史叙述であり、その記述の網の目のなかから、私たちがいま見ている教科書ができています。その教科書やさまざまな歴史叙述をみながら、一人ひとりが自分の歴史を叙述できるといいよね、それを教室の仲間と歴史対話しながら練り上げて叙述した歴史をつくれればいいよね、歴史叙述の網の目のなかで「マイ?ヒストリー」を練り上げていくのが歴史の授業だよね、と伝えました。
私たちは実際に起こった歴史に手を伸ばしているように普段は思っていますが、本当に起こったことが何なのか実はわからない。なので、あくまで膨大な歴史叙述の網の目のなかからマイ?ヒストリーをつくっていく。教科書が「ザ?ヒストリー」ではないので、それを暗記すれば歴史の勉強になるわけではないということです。
たとえば、その時代に関連するBGMを流して、まずは教科書を読む時間をとり、次に教科書をスライドに映し出しながらそれぞれの叙述の背景にどういう実証的研究があったのか、歴史家たちのどういった意義づけがあったのか、そんなことをたどりながら、その日の内容から問題を考え、みんなでディスカッションをする。最後に自分自身がその日扱った歴史についてどう考えたかを書いてみます。
自分の置かれている状況や自分の進むべき道を考えるときに、世界を生きた過去の人々や時代を参照する。こうした「世界に向き合う世界史」のスタイルは、高校生でも十分可能であると考えます。そして、より多くの地域や時代とつながりあった場合には、世界史のもう一つのスタイル「世界のつながりを考える世界史」に発展します。私が目標とするのは、高校生と一人ひとりの世界のつながりを考える世界史をつくることです。
知の理論という観点からいえば、歴史実証や歴史解釈をする際に、さまざまな歴史家の営みを振り返り、以下の観点でファクトチェックしていくことが大事なのではないかということを高校生に強調していきたいです。
1つめは、物事を考えるとき、要素に分割してチェックしていくこと。2つめは、遅塚忠躬氏が言われていることですが、事実に立脚しているか、論理が整合的か。3つめは、歴史学で大切なことですが、部分と全体の関係がどうなっているかというチェック。特に個別の実証を行ったときに、個別の事柄なのにそれがまるでその時代の社会全体であったかのように論じている歴史研究が実際にはあります。四つめは、E?H?カー『新版歴史とは何か』で強調されていることですが、現代と過去の文脈は違うので、過去の文脈を吟味して、それと現代が対話していくことです。5つめには概念の妥当性というのがあります。
具体的には、どのような問いを発すると対話がうまくいくのか。課題発見を目指す対話---なぜだろう。主体化作用---自分とどう関係しているのか。時空間拡大作用---何と比較できるか、つながっているか。根拠の問い直し作用---その根拠は大丈夫か。仮説の構築と検証---自分で論理を組み立てるとどうなるか。この5つを念頭に置いてテーマをつくると、議論が活発になります。なぜかというと、どの問いでも、問うている私自身を見つめ直すことになるからです。
歴史は知識を前提として組み立てているから、知識がないと歴史の対話ができないという歴史教師が結構います。だからまず教えないといけない、と。ですが、歴史解釈や歴史批評、その歴史をめぐってどう考えるかとなると、それぞれが暗黙知として持っている世界のイメージ、民族や地域に対する先入観、そういったものが実はめぐり合わさって歴史の価値づけが生まれてくることに気づきます。そうした書かれざる歴史イメージと自分とがどう関係しているのか、その根拠は本当に大丈夫なのかを考えると、自分が常識だと思っていたことがそうではないと気づくことができるのではないでしょうか。
何を学ぶか
いままで世界史の教科書は、国と国がどのように攻防して、どんな有名な政治家が出てきたのかというものでした。いわば、国ごとの鳥の目でしたが、それを地球規模の鳥の目に広げてみるとどうなるか。あるいは、具体的な歴史の個人、蟻の目で一人ひとりの人間の行為主体性を見つめてみる。スケールを大きくしたり小さくしたりという調整を試みてはどうでしょうか。
蟻の目でいえば、パレスチナ問題について、3人の人物にスポットを当てた授業を考えています。イスラエルの爆弾が落ちてくるガザから世界に向けて、メールでリポートしたサイード?アブデルワーヘドの「ガザ通信」を読んでみる。アメリカの大学を卒業してガザの人々を守るために人間の盾になろうとガザで活動しイスラエル軍に殺害された、アメリカの女性レイチェル?コリーのメールを読む。イスラエル兵でイスラエルの問題点を告発する側にまわったノアム?ハユットのインタビューを読む。個々の言葉をたどりながら、問いを立てます。
アメリカ史では、パトリック?ヘンリーの「自由を与えよ、然らずんば死を」という言葉を民主主義の源流として学ぶにもかかわらず、中東で自由のために死のうと考える人間を、私たちは「テロリスト」であると思いがちです。2つの事柄を違うふうに考える私たちの歴史認識を、どのように判断すればいいのか。これが私の問いです。根拠の問い直しであり、歴史を見ている自分自身の問題点を考えるという主体の作用です。
また、あなたが耳をすませてみたい立ち位置の歴史主体は他にあるか、とさらに問いかけ、部分と全体のファクトチェックを深めることもできます。パレスチナ問題をさらに多面的に捉えるための当事者を探すのです。たとえば家族が自爆テロの犠牲になったため、イスラエルの武力行動を正当化する兵士など。あるいはパレスチナ問題の意義を掘り下げるために、比較可能な歴史主体を探す方法もあるでしょう。さまざまな問いを通じてファクトチェックの方法をさらに吟味していきます。
地球規模の鳥の目でいえば、『岩波講座 世界歴史』シリーズで試みられた、古代中世をヨーロッパと西アジアで分けない構成を、例に挙げることができます。つまり、ギリシア、ローマだけを特別視しないということです。たとえば、ローマ帝国が西ローマの滅亡で一旦幕を閉じ、後はビザンツ帝国がずっと地中海の片隅で生き続けていくというのが、これまでの世界史の教科書でした。ですが第八巻では、ギリシア、ローマが途絶えて、まったく別のところでイスラーム王朝のウマイヤ朝が出てくるのではなく、両者を統合した鳥の目で描いています。
具体的には、ウマイヤ朝のムアーウィヤがコンスタンティノープルを攻撃した際に、彼が神の恩寵を受けた地上の支配者としてローマ皇帝のような意識を持って攻撃していた、あるいはムアーウィヤはササン朝の後継者という意識を持ってアレクサンドロス帝国の再建を目指そうとしていた、というような叙述でウマイヤ朝の歴史を描いています。
また、林先生が書かれた第13巻の展望論文では、オスマン、サファヴィー、ムガルを横に並べ、3つのアジアの近世帝国に共通している歴史のリズムがあることが論じられています。そして、18世紀の帝国について教科書では「衰退」が強調されますが、地方社会や経済が活性化することで、新たな展開がその地域にあったのではないか、立憲主義の要素がオスマン帝国にあったのではないかといった、旧来の歴史の見方をガラっと変えるような世界歴史のストーリーが、これまでのような国ごとの鳥の目を超えた視点から提起されています。
文献案内
- 小川幸司?林佳世子ほか編『岩波講座世界歴史』全24巻、岩波書店、2021?23年
- 遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、2010年
- 保苅実『ラディカル?オーラル?ヒストリー│ オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』岩波現代文庫、2018年
- E?H?カー『新版歴史とは何か』近藤和彦訳、岩波書店、2023年
本学出版会刊行の歴史学分野等の書籍
- 『中国近代史』蒋廷黻 著/佐藤公彦 訳(東京外国語大学出版会、2012年)
- 『画像史料論 ── 世界史の読み方』吉田ゆり子 八尾師誠 千葉敏之編(東京外国語大学出版会、2014年)
- 『痛みと感情のイギリス史 』伊東剛史 後藤はる美 編(東京外国語大学出版会、2017年)
- 『歴史の中の感情 失われた名誉/創られた共感』ウーテ?フレーフェルト【著】 櫻井文子【訳】(東京外国語大学出版会、2018年)
- 『植民地の偉大さと隷従』アルベール?サロー 【著】 小川 了 【訳】(東京外国語大学出版会、2021年)
- 『移民のヨーロッパ史 ドイツ?オーストリア?スイス』クラウス?J?バーデ【編】、増谷英樹 穐山洋子 東風谷太一【監訳】、前田直子 藤井欣子 鈴木珠美【訳】(東京外国語大学出版会、2021年)
- 『数字はつくられた 統計史から読む日本の近代 』佐藤正広【著】(東京外国語大学出版会、2022年)
- 『朝鮮人シベリア抑留 私は日本軍?人民軍?国軍だった』金孝淳【著】、渡辺直紀【訳】(東京外国語大学出版会、2023年)
- 『東京外国語大学150年のあゆみ』東京外国語大学文書館【編】(東京外国語大学出版会、2023年)
- 『ウクライナの装飾文様』【画】ミコラ?サモーキシュ、【訳?解説】巽 由樹子(東京外国語大学出版会、2023年)
東京外国語大学出版会 pieria【ピエリア】2024年春号 掲載