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世界を語ろう@TASC シリーズ第7回: オスマン帝国の遺産から見る現代世界 ?対談者:川本智史准教授

研究室を訪ねてみよう!

地域研究のシンクタンクとして本学の研究?教育を社会に対して発信することを一つの役割として担うTUFS地域研究センター(TASC)で行うTASC対談シリーズ。吉崎知典TASC長が、世界各地域の諸問題について、本学の教員と対談していきます。

第8回は、建築史、オスマン史が専門の川本智史准教授をお招きし、オスマン帝国の建築遺産と文化的影響力について対談しました。多民族?多宗教社会における共生の仕組みや、文化財保護を通じた現代トルコの対外政策について、具体的な事例を交えながら伺いました。(対談が行われた2025年3月13日時点の情報に基づく内容です)

第7回目の対談者:
川本智史准教授 

略歴 東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授。東京大学工学部建築学科を卒業、同大大学院工学研究科建築学 修士課程、博士課程修了、工学博士。前近代オスマン朝の都市と建築を研究する。特に15?16世紀のオスマン帝国における宮殿建築、都市空間の歴史、住宅の歴史を研究している。現在は、19世紀以降の近代期における都市空間の変容にも研究範囲を広げている。

ファシリテーター:
吉崎知典特任教授/TUFS地域研究センター(TASC)長
専門分野は平和構築、戦略論、日本の安全保障等。慶應義塾大学法学部卒業、同大学院法学研究科修士課程修了。防衛庁防衛研究所助手、同主任研究官、防衛省防衛研究所理論研究部長、同特別研究官(政策シミュレーション)、同研究幹事を歴任した。2023年4月より現職。その間に英国ロンドン大学キングズ校客員研究員、米国ハドソン研究所客員研究員なども兼任。

現地調査から見たオスマン帝国の近現代

吉崎  TASC対談シリーズ「世界を語ろう@TASC」では、激動する世界情勢をテーマに各地域の専門家にその地域の動きについて伺っています。現在、中東の動き、さらにウクライナに象徴されるヨーロッパの動きが注目されていますが、歴史上や文明史上で繰り返されてきた事象として捉えることができると思います。このような背景の中で、川本先生にはご専門の視点からお話しいただきたいと考えています。まずは、先生が現在、特に関心をお持ちの研究テーマについてお話しをお聞かせください。

川本  私は工学部建築学科の出身ですが、建築学科には建築史を学ぶセクションもありました。そこで、私は主にオスマン朝、つまりオスマン帝国の15~16世紀における建築を研究していました。特に宮殿をテーマとして取り上げ、そのような空間がどのように形成されてきたのかという前史を大学院時代に研究しました。現在はさらに視野を広げ、都市そのものの歴史や都市空間、また住宅の歴史にも関心を寄せています。研究のフィールドは引き続きオスマン帝国ですが、時代の範囲を広げて、19世紀以降の近代にも興味を持って取り組んでいます。

一昨日までトルコに出張していましたが、今回の出張ではトルコ西部を訪れ、20世紀初頭にトルコとギリシャの住民交換の結果として放棄された集落を調査?見学しました。この調査では政治的?制度的な側面には踏み込まず、なぜそれらの集落が放棄されたのか、またどのように再生や再利用が進んだのかといった点に関心を持ちました。

川本准教授

吉崎  今回の調査した地域について具体的に教えていただけますか。住民交換による影響について、どのような点に注目されたのでしょうか。

川本  今回調査したかつてのギリシャ人たちの集落は、国際的な農業生産品や鉱物資源の輸出に携わる人々が暮らしていた場所でした。オスマン帝国には複数の経済圏が存在していました。例えば、イズミル(エーゲ海岸の国際港湾都市で旧名スミュルナ)を中心としたブドウやイチジクの産地がある一方、地中海岸にあるフェティイェはギリシャ系住民の多く住むクロム鉱石の積み出しで栄えた港町でした。また、現在のギリシャにあるテッサロニキ周辺は、たばこなどの農業生産品の輸出拠点として機能していました。

このようにオスマン帝国は様々な人々が住む多様性を持ちながら、同時に複数の経済圏を内包した世界でもありました。しかし、その解体過程では、人々の移動ややり取りが大きく影響を及ぼしました。その最たる例が、オスマン帝国の解体後の1923年トルコ共和国とギリシャ王国の間で結ばれた住民交換制度です。この制度により、トルコ共和国に住むギリシャ正教徒がギリシャ王国へ移され、ギリシャ王国に住むイスラム教徒がトルコ共和国へ移されました。この住民交換では経済圏を無視する形で実行されました。たとえば、たばこ農家が鉱山の町へ連れて行かれたり、都市住民がかつてギリシャ系住民が経営していたブドウ畑の真ん中へ移されたりといった、非常に乱暴な配置が行われたのです。その結果、多くの人が新しい土地に適応できず、様々な問題が発生しました。今回の調査では、こうした問題の背景に触れることができた点が最大の成果でした。

イズミル湾の夕日 この向こうには世界市場が控えていた

吉崎  オスマン帝国の経済圏や住民移動の背景を考える上で、本学での教育活動が影響している点はありますか。

川本  ゼミには、建築や都市に関心を持つ学生が多く集まります。今年度は私自身が関心のあるオスマン帝国における「農業」をテーマにした論集を皆で読みました。19世紀における世界経済ネットワークの中での干しブドウや干しイチジクの生産と輸出の仕組みを考察するような内容です。私が本学で様々な学生と向き合う中で、これまで全く関心を持たなかったような事柄にも目を向けられるようになり、研究を進める中で視点が広がったことを実感しています。また、少し地域と言語の話に移りますが、私の専門地域の言語はトルコ語ですが、現在、トルコ語が使われている地域は主にトルコ共和国と北キプロス?トルコ共和国(キプロスの北部、未承認国家)です。このように、トルコ語は基本的に地域と一対一で対応しているように思えます。しかし、先ほどお話ししたオスマン帝国の広がりを考えると、実はトルコ語が通じる範囲は非常に広いことが分かります。具体的には、トルコ系移民が多いドイツではトルコ語が広く通じますし、アルバニアでもトルコ語を理解できる人が少なくありません。また、シリアでもトルコ語が通じる場合があります。さらに、必ずしもオスマン帝国の枠内には含まれませんでしたが、、イランのアゼリー系の人々ともトルコ共和国のトルコ語で意思疎通は可能です。

このように、オスマン帝国という巨大な枠組みの中で、トルコ語は一種のリンガフランカ(共通語)として使われていたため、非常に広い影響力を持つ言語です。オスマン帝国を対象に研究を行う際にはトルコ語を理解することが不可欠です。

1875年のオスマン帝国(アブドゥルアズィーズ皇帝統治下)(CC BY-SA 4.0)

オスマン帝国の都市形成とその広がり

吉崎  先生のお話を踏まえると、歴史や文化に深く根ざしたテーマが繰り返し現れることに気づきます。特に1923年というのは、100年前の出来事でありながら、現在とも、ウクライナ危機やガザの問題などにも共通する要素が多く見られる点が興味深いです。そこで伺いたいのですが、先生が地域研究を進める中で、次にどのようなアプローチを取りたいとお考えですか。また、その地域で現在起きている事象を、どのようにグローバルな視点で捉え、意味づけをすることができるとお考えでしょうか。

吉崎教授

川本  オスマン帝国は広大な領域を持ちます。建築遺産の観点で話すと、15?16世紀頃から帝国各地で都市が築かれ、モスク、学校、ハマーム(浴場)、商業施設などが形成されました。これを支えたのが「ワクフ」と呼ばれる寄進制度です。この制度では、都市におけるモスクや学校などの維持費を支えるため、周辺に収益を生む施設を設けたり、農村の租税を運営資金に充てる仕組みが採用されました。農村からの収益によって都市が維持されるという構造は、オスマン帝国全土で実施されていたものです。こうして形成された建築や都市空間は、現在のトルコ共和国だけでなく、帝国領であった地域にも数多く残っています。特にモスクのような建築遺産は、オスマン帝国の広がりを象徴する存在です。これらの遺産は、建築や都市空間として、その歴史的影響力を今も可視化していると言えるでしょう。

現在のエルドアン政権は、トルコ一国主義というよりも「新オスマン主義」として、かつてのオスマン帝国領への影響力拡大を目指していると言われています。その一環として、オスマン帝国時代の文化財の修復を政府系機関が積極的に行っています。例えば、アルバニアのモスクや学校では、トルコ政府機関による修復が行われ、その成果を示す看板が設置されています。この看板にはトルコ語も記載されており、トルコの存在感を示しています。このような文化財修復活動は、ソフトパワーを活用した影響力拡大の一例です。さらに、他の地域でも同様の活動が行われています。また、文化財保護や修復に限らず、トルコの建設業は海外進出において非常に強い競争力を持ち、政府がその進出を後押ししている点も注目されます。

一見すると、私の専門である歴史的建築や都市の研究は、現代社会とは関係が薄いように思えるかもしれません。しかし、これらの建築や都市の維持管理方法、さらにはその見せ方自体が、現在のトルコ政府の影響を大きく受けていると言えます。

カヤキョイ遺跡遠景

吉崎  文化財の保護を通じて、モスクの修復やオスマン帝国の遺産を継承することは、トルコやイスラム文明が歴史に与えた大きな影響を象徴しています。この取り組みは、ソフトパワーとしての援助の形を取り、トルコの将来につながる発想と言えます。一方で、平和構築の観点から「エンジニアリングピース」という言葉があります。これは、インフラ整備を通じて住民の生活を向上させ、感謝や良い評価を生むことで、支援や影響力を強化する考え方です。日本のPKO活動でも、この考え方が意識されており、道路や橋の修復がODAと組み合わせて行われています。ただし、日本はその支援をあえて目立たせない方針を取っています。一方で、エルドアン政権下のトルコは、イスラム文化のアイコンを意識的に残しながら、影響力を広げる戦略を取っているように見えます。この対比は非常に興味深いものです。

川本  一方で、ギリシャやブルガリアのような地域では、オスマン帝国の歴史は「トルコによる占領」として捉えられることが一般的です。しかし、500年に及ぶ統治を単に「占領」と呼ぶべきかどうかについては議論が続いています。近年、オスマン帝国時代をより深く研究し、再評価しようとする潮流が生まれており、文化財の保存や修復を推進する機運も高まっています。それでも、トルコからの積極的な支援を受けて修復が行われるのは、例えばアルバニアやボスニアのように、いまだイスラム教徒が多数を占める地域が中心となっています。

吉崎  「占領」という言葉には興味深い点があります。日本は7年間の占領を経験しましたが、軍事的制圧や軍政だけではなく、社会的なネットワークも形成されたと私たちは捉えますが、現地のキリスト教徒やその視点から見ると、必ずしもそうした解釈にはならないかもしれませんね。

川本  占領という概念について、オスマン帝国を「バルカンの帝国」として捉えると、少し異なる視点が浮かび上がります。経済的にも人的にもバルカン半島が主体であり、アナトリアはそれに比べて二次的な位置づけでした。そのため、ギリシャ、ブルガリア、セルビアなどは、オスマン帝国の中核地域だったといえます。これらの地域は、単なる占領地というよりも、完全にオスマン帝国の行政に統合されていました。そう考えると、これらの地域こそオスマン帝国そのものであり、帝国の一部として不可欠な存在だったと言えます。

吉崎  偶然の話ですが、明日からイタリアに行く予定で、トルコ航空でイスタンブール経由です。この地域への移動手段として、イスタンブール経由は非常に多いですよね。日本から見ると、イスタンブールはまさに窓口の役割を果たしており、それは単なるソフトパワーに留まらず、トルコの強力なネットワークの力を示していると感じました。

現地調査を通じて視野を広げる

吉崎  最後に、東京外国語大学で学んでいる学生や、東京外大に関心のある高校生、さらには社会人の方々へ、先生が伝えたいメッセージがあれば教えていただけますか。

川本  とにかく積極的にフィールド(現地)に出てほしいと思います。物事を理解するには、実際に現地で目にし、自分の体をその場に置かないと分からないことが多くあります。東京外大の学生は語学力が高くとても勉強熱心な方が多いですが、書斎にこもりがちな傾向も見受けられます。そのため、ぜひフィールドに飛び出していってほしいと思います。東京外大で専攻言語をしっかり学び、実践的に使える力を身に付けた彼らにとって、これほど強力な武器はありません。理論を知り、言語を活用し、フィールドに挑む???、本学はそんな「最強の人材」を育成していると感じます。本だけ読むのではなく、街に出て、現地で学ぶ力を発揮してほしいと強く思います。

オスマン帝国に関して言えば、その影響がトルコ共和国だけに留まらず、非常に広範囲に及んでいることが分かります。歴史上、多くの帝国や文化圏が存在しますが、その中でもオスマン帝国は広大な領域と長い時代を特徴とし、現代社会にも強い影響を残しています。現在、世界各地でさまざまな紛争が発生していますが、その多くがオスマン帝国と関連する地域に集中しています。たとえば、ガザ、ウクライナ、バルカン半島などが挙げられますが、これらの地域では、今なおオスマン帝国の影響を多く見出すことができます。ぜひ東京外大で学びながら、オスマン帝国やその後継国家であるトルコ共和国を通して、世界の歴史や現代社会を深く理解することを目指してほしいと思います。そうした視点は、広い視野と洞察力を育む一助になるはずです。

吉崎  様々な紛争の背景に、もしかするとオスマン帝国の影響があるのかもしれません。もしそうであれば、オスマン帝国をどのように理解すれば、紛争解決の手がかりや新たな気づきを得ることができるのでしょうか。また、かつてのオスマン帝国の境界線に位置する国々は、宗教的にも文化的にも多様性があると思います。その違いを乗り越え、和解や対話につなげるためには、どのようなアプローチが考えられるのでしょうか。難しいテーマかもしれませんが、これは私自身が平和構築を考える中で、常に向き合っている問いでもあります。

川本  オスマン帝国がうまく機能していた理由の一つは、多宗教?多民族が共生する社会を築いていたことです。その背景には、中央政府が過度に干渉せず、各宗教共同体が自律的に運営するという分権的な仕組みがありました。しかし、宗教共同体間で問題が生じた場合には、中央政府に訴えることで解決を図っていました。この際、オスマン帝国の皇帝(日本語で「スルタン」、本来は「パーディシャー」)が調停者としての役割を果たしていたのです。ただし、イスラム世界の守護者という立場を持ちながら、イスラム色を強く押し出しすぎると、他宗教とのバランスが崩れ、調停者としての機能が損なわれる恐れがあります。現代社会に照らし合わせると、誰が「バランサー」の役割を担うのかが極めて重要な課題であると言えるかもしれません。

オスマン帝国の事例をさらに挙げると、スルタンがイスラムに寄りすぎた場合、問題が生じることがありました。また20世紀初頭には、民族主義的傾向が強まり中央集権的な国家体制が確立されていく中で、非ムスリムに対する圧力が強まりました。具体例として、学校教育をトルコ語で行うことの強制や、非ムスリムの徴兵などが挙げられます。こうした中央集権化の進行により、マイノリティへの圧迫が増し、最終的には迫害へと繋がるケースも見られました。オスマン帝国の歴史を振り返ると、このような動きがどうしても避けられなかったことが感じられます。

スレイマン1世(在位:1520年-1566年)

吉崎  多様性に対する寛容さを保ちながらも、異なる宗教や民族の存在を取り込み、一定の圧力を加える形の統治は、行き過ぎると内部から崩壊する危険性があります。そのため、分権化や分散、多様性への寛容さを重視し、それを最終的にバランスよく保つ感覚が重要だと言えます。そうした違いへの寛容さを武力や軍事力に頼らず、対話を通じて、時間をかけて解決するアプローチが求められます。つまり、焦らずに取り組むことが鍵なのですね。

本日は大変貴重なお話をいただき、ありがとうございました。ぜひ、今後もこうした対話を続けさせていただければ嬉しいです。

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