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たふえね×教員:地域の声で紡ぐ世界~環境課題の今~大石高典准教授(中部アフリカ地域研究)インタビュー

研究室を訪ねてみよう!

植民地時代から続く権力構造と切り離せない、アフリカの環境保護政策。今回のインタビューでは、カメルーンやコンゴ共和国をはじめとする中部アフリカ地域を研究されている大石高典准教授にお話を伺います。

インタビュアー

  • 渋谷(国際社会学部 西南ヨーロッパ地域/フランス語 国際関係コース 4年)
  • 宮下 希彩(国際社会学部 東南アジア地域/タイ語 1年)
  • 龍 歩未(国際社会学部 アフリカ地域 1年)
  • 鈴木 みれい(言語文化学部 ベトナム語1年)

取材?執筆

  • 堀 詩(言語文化学部 英語3年)(広報マネジメント?オフィス学生広報スタッフ?学生ライター)

―――大石先生が人と自然の関係や環境問題に関心を持つ中で、カメルーンやコンゴ共和国を研究フィールドとして定めたきっかけを教えてください。

一言でいうとご縁ですね。僕は静岡県に生まれ、中学生や高校の頃は浜名湖など近所の湖で魚を釣ることが趣味でした。母親が行っていた家庭菜園の影響もあり、生き物が好きな子どもでした。ちょうど僕が小学校高学年の頃でしょうか、1990年代に入る頃、にわかに環境問題が世界的に議論されるようになり、そのような時代の潮流と自分の生き物への関心が結びついて人と自然の関係への関心が芽生えました。

すみわけ理論を提唱した今西錦司[1]をご存知ですか。高校時代に彼の本を読み、彼の探検の話や生き物と自然の関係の話、さらにそこから発展する哲学的な論考に興味を持ちました。受験生のときに生物学の中でも自分の関心に近いのは生態学だと気がつき、その研究が盛んだった京都大学を目指しました。また当時の生態学では、人間が環境に与える影響をノイズとして捉える傾向にありましたが、僕は人間を含めた生態学をしたいという思いが強かったので、その思いを実現できそうな農学部に進学しました。

[1] 戦前から戦後にかけて活躍した生態学者、人類学者、登山家(1902-1992)。著作に『生物の世界』(1941)、『遊牧論そのほか』(1948)、『自然学の提唱』(1986)など。

また、浪人時代に京都大学新聞社が作っていた大学紹介の冊子を見ていたときに、「地球環境は地域感興から」という石田紀郎先生[2]の記事が目に留まりました。石田先生は、環境問題という概念が出てくる前の公害の時代から被害者と伴走しながら研究してきた人です。そこには「環境問題が流行になってきたけれど、地域感興、つまり問題が起こっている現場にはどんな人が暮らしていて、その人たちは何を考えているのかということが見えないままに環境問題が独り歩きしているのではないか」と書かれていたのです。最初はどういうことなのか、よくわかりませんでしたが、大学入学後に山村に通いながら自然保護について考える自主ゼミに誘われ、そこで地域の人と交流し他の学生や院生の話を聞きながら興味関心を広げていくうちに、石田先生の言っていたことがわかるようになりました。環境問題というと「問題」の側面に目がいきがちですが、どんな環境問題にも必ず現場があり、そこで生活をし、自然をなりわいにしている人たちがいます。住み込みで山仕事のアルバイトをさせてもらったりしたことをきっかけに、林業者や農家、漁師の人たちから学ぶことに手応えと面白さを感じるようになっていました。

[2] 石田紀郎(1940-)は、植物病理学者、環境毒性学者、公害?環境問題研究者。元京都大学教授。著書に『消えゆくアラル海』(2020)、『みかん山から省農薬だより』(1988)など。エッセイ「地球環境は地域感興から」は、京都大学新聞社編(1997)『京都大学を知る本:京大サクセスブック1997』pp. 204-205.所収。

研究フィールドとしてカメルーンやコンゴ共和国を選んだのもご縁です。自然史への関心から熱帯林研究には憧れがあって、アフリカ大陸の中でも熱帯雨林が集中しているコンゴ盆地を擁する中部アフリカ地域は魅力的でした。異なる文化的?歴史的背景を持つ多様な民族が、人類進化とも関わり深い、とても歴史の深い森に暮らしている。そこはまた現代的には熱帯林伐採や稀少鉱物採掘などの開発フロンティアでもあるという地球環境問題の矛盾が先鋭化する地域でもあります。人と自然の関係を考えるには、またとないフィールドに思えました。アフリカの地方、とくに熱帯雨林があるような地域は周辺地域で、そこで研究を行うには政府からの調査許可を得るなど様々なハードルがあり、個人で研究に乗り込むのは容易ではありません。中部アフリカ地域では、コンゴ民主共和国のように政治情勢が不安定な国も少なくありませんが、カメルーンは数十年間にわたって安定しており、研究者が落ち着いて研究に取り組める状況でした。そして、京都大学を中心として日本人研究者が現地の研究者(カウンターパート)と協力しながら築いた調査研究インフラが整っていました。このような現実的な事情もあって、アフリカのカメルーンに向かったというわけです。

丸木舟に乗って移動

―――ご自身の興味関心を発端に、大学での様々な出会いや縁を重視されてきた先生の経歴についてよく知ることができました。先生が「カメルーンをはじめコンゴ盆地に生きる熱帯地域の狩猟採集民族の「分かち合う」文化が、地球環境問題を考える上で重要である」とおっしゃっている文章を拝見したのですが[3]、そのように考えるようになった経緯や理由について教えてください。

カメルーンやコンゴ共和国の熱帯雨林にはバカ(Baka)という人たちが住んでいます[4]。僕たちも例えばパーティーでピザをシェアするなどの分け合いを日常的に行いますが、彼らの分け合いというのは、もっと徹底的に生きることと直結しているんです。持っている人が持っていない人に分配するだけではなく、もらったものをさらに分配することもあり、非常に興味深い文化です。

[3] 出典「小規模経済で未来を拓く 狩猟採集民の目線で考える持続可能性」

[4] コンゴ盆地におよそ13集団あるピグミー系狩猟採集民のひとつ。カメルーン共和国、コンゴ共和国、ガボン共和国、中央アフリカ共和国に居住している。

20年来のバカの友人たちと
調査助手の息子Oishiと自撮り

バカなどの狩猟採集社会のほとんどは、それぞれの地域の先住民でもあります。分かち合いを基盤にした生活で百年、千年のオーダーで長期的に生き延びてきたことを考えると、彼らの生活様式は非常に「持続可能」であると言えるでしょう。にもかかわらず、「地球環境問題」を大義名分にして、現在彼らの森の中での生活は制限されるようになってきています。定住的な生活をする人たちが増え、彼らの伝統的なライフスタイルは崩壊しつつあります。そんな状況に僕はすごく疑問を持ったんです。というのも、開発にせよ保全にせよ制限を推進する側というのは結局、これまで地球のキャパシティを食いつぶしてきた近代資本主義国家だからです。

分かち合う文化の極がバカのような狩猟採集社会だとすれば、その逆に富を貯めることが賞賛される文化の極がアメリカに代表される産業資本主義社会でしょう。産業資本主義のもとで植民地や途上国の資源を使って発展してきた先進国が、長年森林の中で生きてきた人たちに 「持続性」を押しつけて支配しようとするのはおかしいですよね。そもそも「地球環境問題」という言説の設定自体が、すごく国際政治的な意図をはらんだものだと僕は思っています。

先進国が長年に渡って炭素を排出し続けてきたにもかかわらず、多少削減の努力はしても自らはそれを止めることなく、途上国に対して強力に「持続可能な開発」を求めるという構造が存在しています。二酸化炭素の排出権取引や自然保護のための資金援助などは、途上国が環境への取り組みを行いやすくする意義があるとされますが、一面では、先進国や企業が自らの環境破壊につながる行為を制限せずに済む手段にもなっていると思います。平たく言えば、前者は自国の産業保護のために炭素排出を減らせない/減らしたくない先進国が、お金を出す代わりに途上国に肩代わりしてもらう仕組みになっていますし、自然保護組織への寄付は石油メジャーのような大規模な環境破壊をしている企業のグリーンウォッシュの手段になっています。一方で、先進国か途上国かを問わず、国家の権益に関わる部分では環境は優先されないということも指摘しておきたいですね。例えば、使用されれば通常の生産活動とは比較できない量の二酸化炭素を排出する爆弾や武器を製造する防衛産業は規制されていないですし、熱帯雨林やサンゴ礁の開発も「国策」と言えばまかり通ってしまいます。これは、現代の日本でも同じ問題を見ることができます。

僕は、地球環境問題が持つ政治的な側面も含めて見つめ直し、行き詰まりつつある近代資本主義を少し遠くの立場から客観視することが必要だと思います。そのために、長い間自然の中で分け合いながら生きてきた狩猟採集民の社会に学ぶことにも意味があると思っています。

―――先進国がアフリカでの環境保護の必要性をむやみに強調し、国際社会で批判を浴びることもあると思います。実際、現地に住む人たちは環境問題や環境保護をどのように捉えているのでしょうか。

現地住民の視点から見ると、環境保護政策によって生じる不公平感はたいへん大きいと思います。なぜなら国立公園の設立などを通じて自然保護が進められる一方で、地域住民は自分たちが暮らしてきた自然から実質的に追い出され、自然の中での伝統的な生活が脅かされるようになるからです。さらに、途上国では先進国の融資による国家財政の維持が最優先されるため、マイノリティである地域住民の意見は考慮されにくい状況にあります。私のフィールドでは、「アフリカゾウやゴリラが絶滅危惧種として手厚く保護されているのに、私たち地域住民は蔑ろにされている」と受け止める人も少なくありません。地球環境問題を考える上では、「誰が」犠牲になっているのか、「どういうこと」が起こっているのかを、地域の文脈に即して具体的に想像する力や実際に足を運んで情報を得ることが必要です。

聞き取り調査の後の集合写真

―――国立公園は環境保護のため重要な役割を担っているという認識しかありませんでしたが、今のお話を聞いて、地域住民の排除や伝統的な生活の崩壊などの側面に気がつくことができました。

アフリカの国立公園には他にも多くの問題があります。例えば広大な公園の維持のためには資金が必要ですが、途上国政府には十分な予算がありません。そのため、国立公園の一部に「特区」を設け、世界の富裕層向けにハンティングツアーを提供するのです。スポーツハンティングと呼ばれますが、客はジェット機で現地を訪れ、ロッジの中の高級レストランで食事を楽しみ、ゾウやバッファローを狩猟し象牙や毛皮を持ち帰る、というビジネスが成立しています。

また環境保護の方法は時代とともに変化していますが、そのルーツをたどると植民地時代の管理方法とつながる点もあります。植民地時代には軍人や武装ガードが住民を摘発し、時には射殺することもありました。環境保護というと穏やかな話に思うかもしれませんが、アフリカの場合は軍事的?政治的な側面と切り離すことができません。アフリカの環境保全政策には、先進国と途上国の圧倒的なパワーバランスの差や植民地時代から続く支配構造がつきまとっていると言えます。

―――植民地時代の権力関係が現在も影響しているのですね。アフリカという地域で環境問題を考えるとき、単純に自然環境そのものを保護するだけでは解決しない問題が多々あるのだと実感しました。最後に、おすすめの文献を教えていただけますか。

地球環境問題を考える際には、原点であり、現在も続いている公害問題に立ち戻ることが有効だと思います。『公害原論』という本は、宇井純[5]が東京大学で行った水俣病についての自主講座をまとめたものです。とても分厚い本ですが、地球環境問題のようなマクロな問題枠組みからは取りこぼされがちな具体的なアクターの視点が丁寧に拾い挙げられているので是非読んでみてください。

はっきり言うと、現在の環境問題は資本家や企業にとっては投資の対象です。皆さんには、地球環境問題がグローバルな統治形態の一つになっていることに気がつかないまま、その枠組みに乗っかって思考停止に陥ってほしくないです。環境問題をより深く理解し、適切な解決策を生み出すには、具体的な地域や言葉に寄り添いながら考えることが大切です。その意味で、多様な地域や言語を為政者ではなく地域住民の視点に近づきながら勉強することができる外大は、期待ができる場所なんじゃないでしょうか。学生さんたちには石田先生が言っていたように、地球環境を理屈で考える以前に、地域を感興する(人と地域のつながりや現地住民の声を聴く)ことができるセンスや身構えを養ってほしいなと思っています。

[5] 工学者。水俣病の原因について議論が紛糾する中、東京大学で学生や教員だけではなく市民にも一般公開の自主講座を1970年から15年間にわたって続けた。

【おすすめ書籍】

宇井純.『公害原論』.2006.亜紀書房.

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