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明日の神話

ピエリア?エッセイ

野平 宗弘

 昼夜を問わずひっきりなしに行き交うダンプカーの巻き上げる砂ぼこりに一切が覆われ、家は一年中貧乏ゆすりのように揺れ続けるせいか、文学的に夢見られるような田園風景の叙情性など皆目見当たらず、殺伐というほか形容しようのない寂れた田舎町(たとえば映画『さらば愛しき大地』に見るような)に居たたまれず、国際社会での華々しい活躍を夢見て上京してきた新入生も、本学にはきっと多くいることだろう。そして、もしかしたらそんな田舎とさほど変わらない多磨での生活にも慣れてきた頃、東京なんてこんなもんだと余裕こいて渋谷あたりまで繰り出してしまい、都会の私学の若者たちの洗練されたスタイルに圧倒されることがあるかもしれない。
 だが、そんなものは多磨で勉学に励んでいればすぐにどうでもよくなることなので、もし、はるばる渋谷まで行ってどうせ圧倒されるなら、岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」に圧倒されてもらいたい。若者たちで賑わう街のど真ん中、JRと井の頭線を繋ぐ渋谷駅二階連絡通路の一面に広がる、壮絶な闇の爆発、業火の怒濤がうねり轟く大破局(カタストロフィ)の地獄絵図、それがぼくたちに突き付ける残酷に。そして、その下を何事もなかったかのように過ぎゆくぼくたちの残酷に……
 モチーフは、ビキニ環礁でのアメリカの核実験と第五福竜丸の悲劇だという。しかし、人間の科学知が作り出した物理的な爆発の単なる描写とは違う、もっと根源的な爆発を、原色飛び散る作品そのものの激しい爆発の中にぼくは見る。「すべてが出現するのは、稲妻が永久の光、ヘラクレイトスの「いつまでも生き続ける火」を分かつからである。混沌の闇は、稲妻を閃かせ、聖なる炎を裂き開き、一切は芽生え、宇宙はぱっと明るくなる。明らかに、私たちが今日見ている炎は、後から来た炎にすぎず、太陽さえも、ヘラクレイトスの稲妻の後に来たものにすぎない」。これは岡本の言葉ではなく、ぼくが長く研究してきたベトナムの思想家?詩人ファム?コン?ティエンの言葉だが(『越境に関するベトナムの哲理』未邦訳)、「万物を舵取るのは稲妻だ」というヘラクレイトスの言葉にあるような、稲妻の如き存在そのものの初源的な爆発を、渋谷の巨大壁画にぼくは思う。
 存在の爆発は同時に、己の中の炎の爆発だ。岡本は、「すべての存在の根源の天地」としてのヘラクレイトスの「火」に言及する中で、人間の内の暗く神聖な炎をこう語る。「ある日、炎の意味を悟る。この社会の惰性、卑しさに対して、「否」というべきなのだと。絶望的に模索していた生身のまわり、偽りの皮がメリメリとはがれはじめるのだ。心の内なる炎が突然、殻を突き破り、総身にメタモルフォーゼし、世界に躍り出る。そして否を叫び続ける。世界?宇宙全体が炎に還元する。その激しい姿は、他からは「犯す者」として映るだろう」(『美の呪力』)。これは「明日の神話」の解説ではないが、壁画の中心で炎を上げながら十方に開闢し、自らも燃やしつつ一切を焼き尽くさんとする骸をまさに指し示している、とぼくは思う。
 科学知が理路整然と作り上げようとする「明るい未来」の欺瞞を暴き、ぼくたちの底に惰眠している存在の炎を奮い起こさんとする、あまりに反時代的な「明日の神話」。そんな神話を描き出す岡本自身、神不在の現代にあって、〈神的なもの〉を見ることができる人でもあった。沖縄の御嶽(うたき)、その聖なる場所に行って見たのは、石ころがいくつか転がっているだけの何もない空間。その時、岡本は言うのだ。「あの潔癖、純粋さ。 神体もなければ偶像も、イコノグラフィーもない。そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。神はこのようになんにもない場所におりて来て、透明な空気の中で人間と向いあうのだ」(『沖縄文化論』)。何もないことに眩暈する岡本自身のとんでもない感性にぼくはひたすら眩暈する。これも、「ここ〔かまど〕にもまた神々はいるのだから」と言ったヘラクレイトスに通じるところがあるだろうか。

のひら?むねひろ 総合国際学研究院准教授 ベトナム文学

文献案内

岡本太郎『美の呪力』新潮文庫、2004年
岡本太郎『沖縄文化論』中公文庫、1996年

2019年春号掲載

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