第2章 明治の近代教育体制の構築と外国語学校の設置
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東京外国語学校在籍時代の長谷川辰之助
(二葉亭四迷)
明治初期において近代教育体制は、たび重なる試行錯誤を経て構築されていきます。1873年、文部省は「外国語学校教則」を公布し、官立の外国語学校として東京外国語学校が建学されます。しかし、「脱亜入欧」を目指し、富国強兵?殖産興業が推進されるなか、「語学ハ商業ニ附属」する学問とみなされます。さらに商業を重視する社会的風潮が強まり、1884年に東京外国語学校内に所属高等商業学校が置かれ、翌年には東京外国語学校及び同校所属高等商業学校は、東京商業学校に合併され、一時廃止されます。
◆「外国語学校」の役割
「外国語学校教則」において、外国語学校は「外国語学ニ達スルヲ目的」と定められ、当時外国人教師が外国語で専門的な学術?技能を教授していた専門学校への進学を志す者と、通弁(通訳)を志す者の2種類の学生を養成する学校とされました。また外国語学校における語学の種類は、「英、仏、独逸、魯、支那」に加え、場合により「西班牙、伊太利、蘭、其余ノ語」を置くことができるとされました。
1873年に開校された東京外国語学校には英?仏?独?魯?清の五学科が設置されます。『文部省第一年報 明治六年』によると542人の生徒が在籍し、言語別の内訳は英語学236人、仏語学75人、独語学96人、清語学32人、魯語学14人、その他「試験未済」のもの89人でした。日本人教師17人、外国人教師15人がその教育を担いました。
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【左】1875年頃外国人教師 前列右からアドルフヘルム(独)、トラクテンベルグ(魯)、ハンゼン(独)、不詳(仏)、ベンゲル(独)
後列右からセッケンドルフ(独)、不詳(仏)、メーチニコフ(魯)、ビジョン(仏)、不詳(仏)、オットーゼン(独) 【右】仏語学成績通知表(1875年頃)
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◆東京外国語学校廃校の背景―商業教育の隆盛―
文部省は1884年に「商業学校通則」を制定し、商業学校の整備を進めます。文部卿大木喬任は、商業教育の体系を整備し、商業学校の教員を養成することなどを目的に、「東京外國語學校ノ所属トシテ該校内ニ商業学校ヲ設置スルノ儀ニ付上申」を提出し、東京外国語学校内に官立の高等商業学校の設立を目指します。
上申では、東京外国語学校内に商業学校の設置が目指された理由として、従来、外国語学校では語学教育に加え、すでに普通学科として「商業学科ニ須要ナル外国語学、数学、地理学、物理学其他ノ科目等ト同一類似ノモノ」が教育されており、教育カリキュラム面、人員?経費面での合理化を図る上で「便宜」がある、と主張されています。
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(画像をクリックすると拡大表示されます。) 「東京外国語学校ノ所属トシテ該校内ニ 商業学校ヲ設置スルノ儀ニ付上申」 (1884年、国立公文書館所蔵) |