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東京外国語大学のあゆみ

第4章 日露戦争?第一次世界大戦と「外国語」?「貿易」?「殖民」の教育

 日露戦争と第一次世界大戦、その後の日本の対外進出の拡大は、進出に不可欠な言語と地域事情の教育を担う東京外国語学校の存在を世間に知らしめていくこととなります。他方で、第一次世界大戦期の高等教育改革の波は、東京外国語学校における教育のあり方に一石を投じます。「東京外国貿易植民語学校」への改編を巡る騒動は、帝国議会を巻き込み、外国語学校の役割が議論されていきます。

◆日露戦争における軍事通訳養成と東京外国語学校

【グラフ1_東京外国語学校の入学志願者数の推移(1899-1937年)】


 日露戦争では、戦場が中国東北部や朝鮮半島であったため、交戦国のロシア語(露語)だけでなく、中国語(清語)?朝鮮語(韓語)の軍事通訳の養成が必要となります。1904年3月、東京外国語学校では文部省の許可を得て、露清韓の3語科について卒業試験の繰り上げ実施を行うとともに、同月中に本校規則を改正し、軍事通訳に従事する者のための特別制度を設置します。戦争終結までに陸海軍の軍事通訳として従軍した関係者の数は、200余名に及び、そのうち7名が戦死しました。

 他方で、日露戦争後、東京外国語学校に対する世間の評価は高まり、入学志願者数もまた日本の対外政策に呼応して増加していきます(グラフ1)。

 また、日露戦争後、日露協約に基づく満洲?モンゴルへの進出、日英同盟の改定に伴うインド?東南アジア方面に、日本の対外進出の矛先が向かうなか、民間においても商社や企業家がアジア各地にその活躍の場を広げていきます。そうしたアジア諸語に対する需要に対応するため、1908年4月、短期間での外国語の教授を目的とする東洋語速成科が設置され、馬来語、ヒンドスタニー語、タミル語、蒙古語の教育が開始されます。その後東洋語速成科は、1911年に本科?専修科へと昇格し、この時暹羅語もまた追加されます。

 1913年(大正2)2月20日未明、神田三崎町における出火にはじまった「神田大火災」は、東京外国語学校のあった神田錦町一帯に多大な被害をもたらし、校舎は正門?門衛?便所を残して全焼してしまいます。翌年9月、神田錦町3丁目の校舎敷地に仮校舎が建設されました。約8年後、「校名存続運動」を経て、新校舎の予算がおり、麹町区元衛町に新校舎が建設されました。

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【左】神田錦町3丁目13番地校舎(仮校舎)(1913-1921年)【右】元衛町授業風景(1921-1923年)

◆校名存続運動と修業年限延長運動

 1917年(大正6)末、帝国議会において、突如として東京外国語学校を「東京外国貿易植民語学校」への改編が議論されます。「外国語学校」の存続を求める職員?生徒、卒業生はこれに反対し、「校名存続運動」を展開します。これにより、今日まで残る「外国語」の校名の存続が決定されました。

 他方で、各学科の名称を部に改正し、各部を文科、貿易科、拓殖科を設置する教育改革も進められました。しかし、3科制の導入は語学の授業時間数の大幅な削減につながります。これに対し、学生たちは1919年12月、授業内容の充実を求め、これに教職員?卒業生が同調し、修業年限の2か年延長を要求する修業年限延長運動を展開しました。1922年3月衆議院において、「東京外国語学校ノ修業年限延長ニ関スル議案」が提出され、修業年限の1か年延長が決定し、1925年から実施されました。

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「大教室ト国際学講義」(1912年)
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