2012年1月 月次レポート(フィオレッティ?アンドレア イタリア)
月例レポート
(2012年1月、博士後期課程 フィオレッティ?アンドレア)(派遣先:ローマ大学、イタリア)
一般にイタリアの大学では、一ヶ月にわたる冬期休暇があり、後期は2月後半から始まる。そのため1月は授業が休講だったこともあり、『にごりえ』のイタリア語への翻訳作業に集中して取り組んだ。この小説は八章で成り立っており、現在半分ほど完成している。イタリア人読者に『にごりえ』のような小説を紹介するためには、厳密な注釈と解釈が必要なのは言うまでもない。時間と空間の観点から、非情に独特でユニークな背景があるからである。とはいえ、現在のところ私にとってこの小説の最も興味深いところは語りの側面であり、翻訳作業とともに博士論文にも活かせるよう、考察を書き留めつつある。
先月は、ヨーロッパの近代小説における句読点の問題に取り組み、このテーマについて厳密で網羅的な分析を提示する『ヨーロッパの句読法の歴史』という書物を紹介した。特に、地の文と直接話法を区別するための方法としての引用府の使用は十八世紀の後半から立証されているという事実を確認できた。しかしながら、この本では、 まさに十八世紀という時代に引用府が小説の構造的とも言えるほどの要素になるという問題にはほとんど触れられていない。
例えば、紹介済みではあるが、フランス文学における句読法の歴史に関する章では、登場人物の言葉の順番を示すダッシュの使用は、十八世紀の小説が「いっそうポリフォニック」的になるという特徴によるものだと言われている。しかし、ポリフォニーの要素はある程度十八世紀以前の小説にも見いだせると考えられている。むしろ、十八世紀末に明らかになるのは、小説に新しい様式を与えなければならないという要求であろう。
十八世紀後半以前の小説では登場人物の声と語り手の声をはっきり見分ける必要はなかったが、十八世紀後半以降その区別も重視されるようになる。おそらく、この問題は作者と作品との関係よりも、作品と読者との関係に由来している。小説を書くことだけではなく、特に小説を読むということが変化してくるのだろう。
来月は、読書と読者層というテーマを検討し、十八世紀後半から新しい語り方が使用され始めるのは、大衆の新しい要求に応じるための工夫であったのか否かを検討したいと思う。