2012年5月 月次レポート(笹山啓 ロシア)
短期派遣EUROPA月次報告書(2012年5月)
報告者:博士前期課程2年 笹山啓
派遣先:ロシア国立人文大学(モスクワ)
ビザ更新のためパスポートが手許になくまた大学に在庫がないという理由で学生証の発行も受けられずにおり、学内?学外ともに図書館の利用が難しい状況にあったことから、今月は主に書店やウェブサイトでの資料収集、自宅での資料読解に従事した。ロシアの書店は店ごとに値段も品揃えも大きく異なっており、店を回るたび未知の資料に出くわすことも稀ではないが、一方ピンポイントで重要な書籍を探そうとしても、数年前に出版されたものですら新書店ではなかなか手に入りづらいという現実がある。そこでそうした場合はインターネットの古書検索サイト「Alib.ru」(http://www.alib.ru/)を活用し資料の収集を行っている。これはロシア全土で販売されている古本を検索?購入できるシステムで、品揃え、値段、検索のしやすさ、どれをとっても満足のいくレベルである。ロシア語の資料を探す際にはぜひ活用されたい。
今月は中旬に研究対象の作家ペレーヴィンの長編作品『エンパイアV』(2006、未邦訳)を読了し、月の後半は大学紀要の論文や指導教員からお借りした資料を読み込む作業に取り組んだ。修士論文で中心的に扱う2000年代の作品に関する論考が重要なことは言うまでもないが、90年代の初期作品、とりわけ目配りを怠りがちだった初期短編群の精緻な読解にも示唆を受けるところは大きい。2000年前後の作品を境に現れた長編作品の作風の変化が唐突に現れたものではなく、初期短編内に目立たない形で既に準備されていたという事実を発見できたことは嬉しい限りである。ペレーヴィンに対して以前はロシアにおけるポストモダン文芸の牽引役という見方が強かったが、今では「ポストモダンというゲットー」なる言葉を用いる雑誌記事まで現れるほどロシア内での「ポストモダン」を取り巻く言説には変化が生じており、ペレーヴィンの創作活動もポストソヴィエト時代の新しい価値を創造する試みとして見直されつつある。しかしペレーヴィンの外面的な変化やそれに伴って揺れ動く周囲の評価の裏に、実はデビュー以来変わらない彼の問題意識が潜んでおり、こうしたブレのなさが、デビュー以来20年以上を経ても一定以上の評価を国民から受け続ける隠れた理由でもあるのではないかという考えもここで生まれる。これはまだ漠然とした印象でしかないが、この印象を実証的に裏付けるべく現在鋭意奮闘中である。
余談めくが、5月9日は独ソ戦の勝利を記念した祝日「戦勝記念日」であった。赤の広場での軍事パレードの様子は日本のニュースでもよく報じられるが、そのほかにもモスクワ随一の大通りを戦車やミサイル車が行進し、赤の広場へと続く車道が歩行者天国となり、夜には号砲と呼び習わされる花火が街を彩るなど、1年を通して最も賑わうロシア最大級の祝日である。モスクワという大都市の隅々にまで漂うお祭りの雰囲気は非常に愉快なものだった。しかし他方で戦車や号砲を前にした若者たちが、彼らが影も形もなかった時代の戦争の勝利を祝い万歳を叫ぶ姿が、異邦人たる自分の目には奇異に映ったこともまた否定できない。ロシアという国、ロシア人という人種のあり方に対する過剰にも思える自意識はロシア文学の伝統とも呼べるほど根強いものであり、研究対象とするペレーヴィンもまさしくそうしたロシア的「実存」を描く作家の系譜に連なるものと個人的には考えているが、それでなくともロシアに深く関わりを持つ人間として、目の前で展開するこうした社会の様相に常に批判的な目を向け続ける責任のようなものがあるのではないかと強く感じた日であった。(写真は戦勝記念日の軍事行進の様子。トヴェルスカヤ通りにて)