ジャパン通信社『海外考古学事情ーフィリピンー』原稿 小川英文
島嶼部東南アジアにあって、フィリピンの先史文化は独特な様相を持って発展してきた。かつてモンゴロイドの移動経路にあたり、大陸部からさまざまな文化要素がフィリピンに流入し、南太平洋地域へ通り抜けて行った。その後、中国とインドの二大文明の狭間でさまざまな交流の痕跡を示す資料が得られている。しかし、フィリピンでは東南アジアの他の地域のように、これら二大文明の影響を色濃く残していない点が大きな特徴となっている。
東南アジア各地域との文化的影響関係についての研究がなされている一方で、近年、個々の地域文化の発展の様相を人類学的視点によって研究しようという新たな方向性も打ち出されている。しかしながら、フィリピンにおける考古学的資料は未だ非常に不足しているというのが現状である。以下では最近のフィリピンにおける3つの考古学的調査について紹介する。
I. ラロ貝塚の発掘
フィリピンにおいて考古学調査を統括する国立博物館人類学部門は、70年代後半から、ルソン島北東部カガヤン河東岸のペニアブランカ地区一帯に広がる石灰岩台地における洞穴・岩陰・開地遺跡の総合的調査プロジェクトを開始した。その後、現在まで継続された調査によって、剥片石器文化と土器の出現との関係や様々なバリエーションを持つ墓制等、当該地域の先史文化の様相がより鮮明になってきた(Ronquillo and Santiago 1977, Ronquillo 1980)。こうしたフィリピン国立博物館による調査の方向性に呼応して、外人研究者による調査も当該地域で活発に行なわれてきた(Thiel 1980, 1989, 1990, Snow and Shutler 1985)。
フィリピン国立博物館と日本人研究者との共同調査も同様に、カガヤン河の下流域に分布するラロ貝塚群で行なわれている。80年代後半からは分布調査の結果をもとにして発掘調査が続けられている(青柳 1977,1979, Aoyagi 1983, 青柳・田中 1985, 青柳・Aguilera・小川・田中 1986,1988, 1989, 1991, Cabanilla 1972, Ogawa
and Aguilera 1992, Orogo 1980)。この調査の目的は、・貝塚の層位学的発掘によって得られた資料をもとに、この地域の型式学的編年体系を確立し、周辺地域における諸文化との比較研究の基礎とすること、・貝塚から得られた人工・自然遺物資料を基に、河川における資源開発の生業パターンを解明すること、・さらに将来的には、調査対象地域をカガヤン河下流域全体へと徐々に広げながら、さまざまな微小環境に位置する遺跡の考古学的資料を収集し、生業パターンについての情報を蓄積すること、・最終的に、農耕開始以降の当該地域における文化進化の一般的プロセスを解明すること、である。農耕開始以降、この地域における先史文化の様相は非常に複雑である。農耕民が低地で生計を営む一方で、山地では農耕以前の生業形態である採集・狩猟を営む人々が同時代的に生活しており、しかも両者は経済的な相互交流をとうしてある種の「共生関係」を確立していたという可能性を、現在の事例から予想することができる(北部ルソン島採集・狩猟民ネグリートの事例:Peterson and Peterson 1977, Griffin and Griffin 1985, Rambo et. al.
1988, Headland and Reid 1989)。このような問題点を解決するためには、調査で得られた遺物・遺跡・遺跡群の序列を、各時代ごとに正しく配置する必要がある。ラロ貝塚群の調査はその第一歩として位置づけることができる。
遺跡分布とその性格
カガヤン河は、ルソン島北東部を南北約300kmにわたって流れ、バブヤン海峡に注ぐ、フィリピン有数の河川である。この河によってつくりだされたカガヤン渓谷は、東をシエラ・マドレ、西をコルディリエラ、南をカラバリオの各山脈に囲まれている。ラロ貝塚群は、カガヤン河の下流域に点在する。河口にはアパリの港があり、16世紀には日本人町のあった南シナ海の重要な交易拠点であった。貝塚群は河口から10km遡った地点から始まり、50km地点までの間のカガヤン河両岸に分布している(図2)。現在までに確認されている貝塚は21ヵ所で、その規模は、長さ500m、幅50m、深さ2m以上の大規模なものと、直径10m前後の小規模のものまでさまざまである。貝塚の立地条件にしたがってその分布パターンを以下の3つに分類することが可能である。
1)内陸低地:河岸から約1km、標高3〜4mの低湿地に位置する貝塚群が現在までに3ヵ所確認されている。周囲を水田に囲まれているが、石灰岩台地がすぐ近くまで迫っている。遺跡範囲は径約50m、井戸の断面観察から深度は2〜4mである。貝の他、動物骨などの自然遺物は検出されているが、人工遺物は1ヵ所の貝塚から1点の剥片石器が確認されているだけである。発掘調査が行なわれていないので年代については推測の域を出ないが、土器出現以前に貝塚が形成され、その後カガヤン河の沖積作用で埋没したもと考えられる(当該地域の土器出現に関する資料としては、前述のペニアブランカ地区、ローレンテ洞穴からBP7000年のC14年代が得られている)。
2)河岸の自然堤防上:カガヤン河に面した標高約6〜7m、河面比高満潮時で3m(干満の差1.5m)の自然堤防上に位置する貝塚群。その規模はいずれも大きく、最大のもので長さ500m、幅50m、深度2mにも及ぶ。このような大規模貝塚は5ヵ所確認されている。さらにその内3ヵ所の遺跡では現在でも貝の採集が行なわれており、貝塚の形成が続けられる。遺跡を形成している貝種と現在採集されている貝種とはほぼ同じである。遺物は厚手の黒色土器を中心として、中国陶磁片、磨製石斧片が検出されている。貝以外の自然遺物には陸棲動物・魚骨が多種にわたって検出されている。年代に関しては発掘調査により−60cm深度でBP1000年のC14年代が1点得られている。
3)石灰岩台地上:カガヤン河に面した標高約40〜50mの石灰岩台地上に位置する。発掘調査が行なわれたマガピット貝塚は、台地上丘陵鞍部に位置し、その規模は径10m、深度5.5mである。遺物は沈線・刺突文をもつ赤色磨研土器を中心として、有段石斧、土製・骨製装飾品、陸棲動物・魚骨等が得られている。マガピット貝塚の年代は、−1m及び−2m、2点のC14年代が得られており、いずれもBP3000年となっている。
以上の貝塚を主体的に形成する貝種は、いずれも現地名でカビビ(Dallela.sp.)と呼ばれる汽水産二枚貝である。貝種はこの他に汽水産二枚貝2種、淡水産巻貝1種、陸産巻貝4種が見られる。また貝層の状態はほとんど土を含まない純貝層である(発掘資料では混土率90%以上)。
遺物の編年と周辺地域との関係
ラロ貝塚群の中で現在までに発掘された貝塚は3ヵ所である(河岸自然堤防上2ヵ所、石灰岩台地上1ヵ所)。自然堤防上の貝塚から特徴的に出土する黒色土器は、フィリピンの他地域のものと比較すると、金属器時代(BP2000年以降)に属するものと考えられるが、発掘からは十分な資料が得られていない。石灰岩台地上のマガピット遺跡では、深度5.5mの貝層が視覚的に5層に分けられたため、各層から出土した赤色磨研土器を中心とする土器群を型式学的に分類する作業を行なったが、現在までに時期を異にする複数の土器型式は抽出されていない。
マガピット遺跡の遺物群はこの遺跡が形成されたBP3000年頃、周辺地域つまり南シナ海沿岸や太平洋地域における同時期の先史諸文化とのさまざまな類縁関係を示唆している。バシー海峡を隔てた台湾では、北部の円山文化、南部の鳳鼻頭第二期の土器の施文要素・文様構成に類似点が見られる(Chang 1969:Plate84及びFig.53)。また東南部の卑南遺跡では石製決状耳飾りの類品が出土している。さらにマガピット遺跡表採の石製有角決状耳飾りも類品が卑南遺跡にある(宋1987:図7:10)。フィリピン、パラワン島のタボン洞穴群ではフォックスがタボン甕棺複合と呼んだ時期に相当するが(Fox 1970)、文様構成等で土器群の性格が異なっている。しかしここからはカガヤンのペニアブランカ洞穴群アルク洞穴出土の有角蛭状耳飾り、台湾蘭嶼採集の双獣頭形耳飾りの類品が出土しており、これらを指標とする中部ベトナム、サフィン文化との直接的関係を見ることができる(Fox 1979, Solheim 1964, 横倉1987)。同様にサフィン文化の土器群との類似を指摘されてきた中部フィリピンのマスバテ島のカラナイ文化は時期的にはやや新しい(BC400年)。むしろこれに先行するバトゥンガン第2洞穴(BC750年、Solheim 1968:60)は時期的にも、土器の施文要素・文様構成にも類似点が見出だせる。
中部ベトナムのサフィン文化は決状耳飾りに見られるとうり、南シナ海で結ばれた諸地域との直接的関係がうかがえるが、年代的にはマガピット遺跡よりも新しい。しかし北部ベトナム、トンキン湾岸の有肩石器諸文化から出土する土製蛭状耳飾り(横倉1987)は マガピット遺跡の土製決状耳飾りに類似している。
さて一方太平洋地域との関係については、ミクロネシアのマリアナ赤色土器及びメラネシア、ポリネシアのラピタ土器との類似性を考えなくてはならない。これらの土器と類似性をもつ土器を求めて、多くの研究者が東南アジア島嶼部で以前から調査を行なってきたという経緯がある。マガピット遺跡の土器群とは文様構成のあり方等が異なっているが、施文要素・赤色スリップ・石灰充填などに多くの類似点が見られる。
マガピット遺跡の遺物群と周辺地域の同時期先史諸文化との検討を行なったが、在地色を色濃く反映する土器については、直接的な関係を指摘することは困難である。むしろ耳飾りのような個々の文化要素についての比較検討において、類縁関係を見出だすことが可能である。しかし本遺跡を軸として西の南シナ海から東の太平洋までを結ぶ大きなネットワークがかつて存在していたことは確かであろう。ラロ貝塚の調査はようやく緒についたばかりである。さまざまな課題を解決すべく、今後の調査を続けたい。
II. 貝斧文化圏
1988年1月、一週間にわたって沖縄、先島諸島の貝斧文化についての比較検討が、沖縄とフィリピンの研究者によって行なわれた。先年より発掘が進められていた宮古島城辺(ぐすくべ)町の浦底遺跡から、それまで表採のみでしか確認されていなかった貝斧が未製品も含めて多数出土し、注目を集めていた(The Gusukube Town Board of Education 1990)。沖縄県文化課と城辺町はこれを期に、貝斧が出土するフィリピンとの共同研究を計画し、研究者を招いての実地調査が実現した。先島諸島では以前から、シャコ貝の蝶番の部分を素材として作られた斧が表採されていたが、発掘資料が得られておらず、その年代や文化的位置づけに不明な点が多かった。そのためすでに1981年、石垣島の名蔵貝塚の調査を期に採集品をもとにして、東南アジア島嶼部及び南太平洋地域に見られる貝斧文化との国際的な検討が行なわれている(沖縄県教育委員会1981)。今回は浦底遺跡の調査でより明確な位置づけが可能となり、貝斧文化の系譜解明の関心が一層高まってきた。
一方、フィリピンでは70年代初頭の調査でパラワン島、スールー諸島から貝斧が発掘されていた。C14年代でBP6000〜4000の年代が得られている。これらの遺跡の発掘調査に携わり、名蔵での検討会にも参加したフィリピン国立博物館のエバンゲリスタ氏がこの共同研究に参加した。氏はフィリピン出土の貝斧のレプリカを持参し、浦底のものと比較したところ、素材部位、形態、製作技術上の類似点を見出だすことができた。この共同調査によって、貝斧文化解明のまなざしは熱くフィリピンへ向けられることとなった。
その後沖縄とフィリピンの貝斧から始まった共同研究は継続され、89年は浦底遺跡、91年は伊是名貝塚(沖縄県伊是名村伊是名貝塚学術調査団1992)、92年はフィリピン、スールー諸島バロボク岩陰遺跡の調査(安里他1993)へと発展して行く。バロボク岩陰遺跡の発掘は、まさに貝斧文化の源郷での調査である。この調査結果から安里氏は貝斧の発生について、剥片貝器→刃部局部磨製の打製貝斧→磨製貝斧という作業仮設を提示し、こうして発生した貝斧文化が周辺地域へ展開して行ったとしている。
沖縄とフィリピンとの貝斧をとうした共同調査は93年も続けられる。今後、スールー諸島から沖縄へ北へ向かってどのように展開して行ったのか、また南太平洋との関連についても重要な課題となっている。
III.「交易の時代」
中国のハイテク技術によってつくられた陶磁器は、9世紀頃から重要な貿易品として世界市場に登場した。これ以降、16世紀にスペイン人が進出してくるまでの間、フィリピン各地の遺跡から出土する中国陶磁器は、文献資料に代わって当時の様子を探る資料として大きな意義をもっている。その重要性は、この時期をフィリピン考古学で「陶磁器時代」あるいは「交易の時代」と呼ぶことでも明らかである(青柳1992)。考古学資料としての陶磁器がもつ利点のひとつは、特定の生産地(窯場)で焼かれたものが、貿易品として海上交通のネットワークに乗って世界中で発見され、考古学的脈絡の中に位置づけられ、さらに世界各地の遺跡間で年代の比較検討を行なえるという点にある。そのためひとつの陶磁器片の出土によって得られる情報は、フィリピンやその他の東南アジア地域のように編年作業が進んでいない地域では、年代を始めとして海上交易ネットワークや当時の社会のあり方など、多くを物語ってくれる。
フィリピン国立博物館は1950年代以降、陶磁器時代の社会や文化の解明のため、組織的な発掘調査を続けてきた。なかでもカラタガン遺跡(Fox 1959、田中1993)、サンタ・アナ遺跡(Fox and Legaspi 1977, Locsin
1967)の調査では、陶磁貿易の研究史上、貴重な資料を提供した。長年、フィリピン出土の貿易陶磁器の調査・研究を続けている青柳氏は、これらの資料をもとにフィリピンの陶磁器時代を5期に区分する編年を以下のように提示している(青柳1985、1992)。
第1期 9〜10世紀 晩唐・五代期 ラウレル遺跡
第2期 10〜12世紀 北宋初期 バランガイ遺跡
第3期 12〜13世紀 南宋期 アビオグ洞穴遺跡
第4期 13世紀後半〜14世紀 元後期〜明初期 サンタ・アナ遺跡
第5期 15〜16世紀前半 明代前期 カラタガン遺跡
さらにこれら標識遺跡出土の陶磁器群と東南アジアの諸遺跡出土の陶磁器を比較検討することによって、東南アジア世界における海上交易ネットワークの実態が時代ごとに明らかになってきた(Aoyagi 1991)。青柳氏をはじめとする日本人研究者は東南アジア各地の陶磁器出土遺跡の調査を続け、最近ではベトナム陶磁の窯址の発掘調査を行なっている(Aoyagi et al. 1992, 青柳・小川1992)。
「交易の時代」に相当する年代が明記された文字資料が、最近フィリピンで発見されているので最後に紹介したい。この文書資料は銅板に刻印されたもので、マニラ東部のラグナ地方のルンバン川河口から発見された(Postoma 1991)。その後この銅板文書はフィリピン国立博物館で研究された結果、文書は古代ムラユ(マレー)語に属し、古代ジャワ文字(カウィ文字)で記されていることが明らかになった。銘文の最初の行にはサカ暦822年という年代が銘記されており、これは西暦900年に相当する。また銘文の解読によってその内容は、債務返済を当事者とその子孫に対して免責するという法的書類であることが分かった。さらに銅板にはマニラ北部のブラカン州を流れるアンガット川沿いの3ヵ所の地名、及びマニラ湾沿いの2ヵ所の地名が記されており、海上と内陸を結ぶ交易ネットワークの存在を示唆している。
一枚の銅板文書の発見によって当時の社会機構の実態が明かとなり、考古学・歴史学・言語学の各分野に与えた衝撃は大きい。今後は考古学的に文書に現われている地域を調査し、歴史の空白部分を埋めながら、「交易の時代」をより鮮明に描き出す作業を続けなくてはならない。
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