予稿集原稿

ラロ貝塚の人びとのくらし

 南シナ海と太平洋が合流するバシー(Bashi)海峡には、北部ルソン島最大の河川であるカガヤン(Cagayan)河が注いでいる。カガヤン河はルソン島北部山岳地帯の水を集めて北流するフィリピン屈指の河川で、流域には広大な沖積平野を擁するカガヤン渓谷を形成する。この河の下流域には、河口から遡ること45km地点までの両岸に大小の貝塚群が分布する。70年代初頭の遺跡発見以降、80年代後半から継続的に調査を行い、現在の調査地域は河口から2030kmに位置するラロ(Lal-lo)の町域を中心としたカガヤン河両岸の河岸段丘と沖積平野、そして河岸から10kmまでの東岸丘陵地域である。

 これまで発掘調査が行われた個所は7遺跡11カ所である。これらはその性格によって、河岸の貝塚遺跡群、同じく河岸の伸展葬墓群、河岸石灰岩台地上の貝塚、そして石灰岩丘陵上の洞穴遺跡に区分できる。河岸段丘上の貝塚の規模は最大のもので長さ500m、幅100m、深さ2mにもおよび、東南アジア屈指の規模をもつ貝塚群である。貝塚の上では現在でも貝採集を行っている人びとの村が営まれているが、採集された貝は村外に売りに行くのが一般的で、限られた量の自家消費や貝を加工して身だけを取り出した貝殻を大量に廃棄するということは現在では行われていない。河岸段丘の後ろには平野が数キロ続き、水田として利用されている。この平野のなかでも貝塚が3カ所確認されているが、限られた数量の石器以外、遺物は表採されていない。低地平野部は河岸から5kmほどの地点から、南北に走る石灰岩丘陵へと徐々に移行する。発掘された洞穴遺跡は河岸から直線で約10kmの石灰岩丘陵上に立地し、50年代の木材伐採後に始まった焼畑と二次林に囲まれている。

 これらの遺跡の発掘結果を総合すると、遺跡群全体の年代は、遺跡の立地、文化層の層位、石器、土器、陶磁器などの遺物の出土状況などから相対的に5期に区分することができる。すなわち赤色スリップ有文土器(R I)→赤色スリップ無文土器(R II)→黒色土器I (B I)→黒色土器II (B II)→貿易陶磁(1417世紀)である。これらの遺物のほとんどは貝層中から出土するが、R IIは河岸貝塚貝層下のシルト層から出土する。これらの土器群にはいずれも方角石斧が共伴する。絶対年代はR I を出土する遺跡で約BP3000年、 B II を出土する遺跡から約BP1000年というC14年代が得られている。BIIの黒色土器は伸展葬墓の副葬品として、ガラス製ビーズとともに出土する。貿易陶磁は1617世紀に属する福建、広東製青花の碗と皿を中心とし、伸展葬墓群の副葬品として出土する。洞穴遺跡は現在まで1カ所のみの発掘であるが、河岸段丘上貝塚遺跡と同じ貝種(淡水産二枚貝)で構成された貝層中からR IIの土器とともにチャート製剥片石器群が出土している。また洞穴内撹乱層中からは方角石斧刃部再生剥片も得られている。

 調査開始から10年間ほどは、貝塚遺跡の発掘で剥片石器は検出されなかった。しかし最近になって、貝層下のシルト層にまで発掘調査が及ぶようになって、R IIの赤色スリップ土器群と同一の文化層からわずかに数点だが同一地点からまとまってチャート製剥片石器が出土するようになった。その後丘陵地帯の調査を開始して洞穴を発掘すると、わずかな発掘面積に対して多くの剥片石器が出土した(80点/1u)。これらの剥片石器は洞穴内貝層中(貝種は河岸段丘上貝塚の主要構成種と同じ)から出土するが、R IIの土器と共伴している。河岸段丘貝塚の貝層下シルト層中から出土するR IIの土器は洞穴と同じように剥片石器を伴うことは上述したが貝を伴わない。洞穴内出土のR II土器が河岸段丘シルト層中の土器と同一時期とすると、洞穴の貝はどこで採集されたものかが問題として残されている。

 

予稿集パネルディスカッション原稿

東南アジア考古学はおもしろい

フィリピン考古学はおもしろい―過去へのあこがれがとりこぼしたもの

フィリピンの考古学の話を日本ですると、「フィリピンに遺跡があるのか」という問いかけがしばしば帰ってくる。この場合聞き手は、東南アジアの「遺跡」をアンコール・ワットやボロブドゥールといった、著名な、世界遺産に登録されるような「石造建築」遺跡をイメージしているにちがいない。フィリピンだけではなく日本でも、考古学となじみの深い「遺跡」は、石造建築遺跡ではなく、縄文、弥生時代の住居・貝塚・墓地遺跡などである。にもかかわらず日本人が「外国の遺跡」としてイメージするのは、いまでは崩れ落ち、訪れる人もない、鬱蒼とした密林や砂漠のなかに取り残されている石造遺構の姿である。このような遺跡のイメージによって、わたしたちは「古代文明」の神秘と謎にひと時浸り、過去への想像力を膨らませているのである。いっぽう地上に石造遺構が残っていない日本の縄文や弥生時代の集落址では、例えば三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡などのように、物見櫓や萱葺きの住居群などが予想復元され、実体化されなければ、過去へ想いを馳せるきっかけがなかなかつかめないのである。フィリピンの遺跡(貝塚や洞穴)も、石材で構築された上部構造をもっていない遺跡である。それゆえ日本人がイメージする「外国の遺跡=石造遺構」から大きく逸脱し、「フィリピンに遺跡があるのか」という疑問が提示されるのである。

 石造建築に比べて日本やフィリピンの遺跡は劣っているというわけではない。問題は、なぜわたしたちはアンコール・ワットなどの石造建築遺跡をとうして、「古代文明」の謎や王朝の興亡にあこがれをいだき、想像力を膨らませ、ひと時過去へ自らを回帰させようとするのか、という点である。どうも「古代」石造建築が出土せず、土器片や石器片、土造りの遺構しか検出されないフィリピンの遺跡では過去への回帰がスムーズに行われないらしい。

じつは東南アジアの考古学の歴史を振り返ると、わたしたちの過去へのあこがれや「古代文明」の謎を追い求めるのと同じかたちで、東南アジアの考古学研究自体が投企され、過去の「掘り起こし」が文字どおり始まったことが明らかになる。過去の人々の生活の痕跡が、忘れられた状態で現前するとき、過去に謎を抱き、それを追求することから学問が始まるというのは当然のことである。しかしわたしたちの日常生活のちょっとした間隙で投げかけられる過去への遠い想いは、エキゾチズム(あるいはオリエンタリズム)という一定の政治的枠組み抜きには成立しない。また現実の政治経済的枠組みによって、遺跡を資本とする観光産業や遺跡の保護が成立しているというのも、遺跡とわたしたちをめぐる現状である。さらに、わたしたちの過去への想いを実体化する考古学自体が、近代以前には成立していなかったということと切り離して考えることはできないようだ。

 このように現在の政治経済的関係(イデオロギーや価値観)は、わたしたちが東南アジア各国の過去を再構成、再構築する際に深く影響を及ぼしている。フィリピンの先史狩猟採集社会の過去を考古学する際には特に、世界システムの周辺というその位置づけゆえに、わたしたちが過去を再構成する際にこれまで疑問に付さなかった支配的イデオロギーや価値観自体を再考する視点に目覚めることができる。先進的部分だけを追いかける文明考古学ではなく、東南アジアには現在でも文明の方向性をたどらなかった狩猟採集社会が存続している。狩猟採集社会の考古学は、文明の方向性を中心に語ってきたこれまでの考古学、考古学の中心からは逸脱する歴史の課題を明示してくれる。このようにフィリピンの考古学は、文明の考古学とは異なる視点を獲得することを可能にし、文明の方向性のみを追い求めようとするわれわれ考古学者のまなざしのあり方も再考させるような力をもっている。過去へのあこがれが取りこぼしたものを、いま一度考え直させるような力をフィリピンの考古学は与えてくれる。

 


キーワード:ラロ貝塚群、編年、生業、狩猟採集社会、農耕社会、相互依存関係、非文明考古学

 

編年:出土遺物の空間的広がりと時代的先後関係を相対的に位置づけた年表を指す。土器を例にとると、文様の有無やサイズの大小など、土器それぞれの特徴は特定の分布域と時代に位置づけることが可能である。このように互いに異なった特徴をもつ土器群の空間的・時間的な分布の違いを相対的に配置した考古学者のモノサシが編年である。こうしてでき上がった相対編年は、その後の調査結果や放射性炭素14などをはじめとする絶対年代測定値を勘案しながら補正される。日本ではたまたま拾った土器片の特徴から、いつの時代に属する土器であるか判断できる場合があるが、ラロ貝塚では遺物による相対編年のモノサシが十分に完成していないため、まず編年作業を進める必要がある。

 

生業:ナリワイ。人類は誕生以来、長い期間にわたって狩猟・採集活動によって生活してきた。ほぼ1万年以降からは農耕という生業に移行し、牧畜を始め、都市生活や文明を築くことになる。考古学調査で得られる遺物は、当時の人びとが自然環境に対して働きかける道具を中心としている。こうした道具から生業のあり方や技術を明らかにすることに、当時の経済的側面に迫ることが、過去を再構成する際の最初の作業となる。

 

狩猟採集社会と農耕社会の相互依存関係:ラロ貝塚群の分布する地域には、現在でもイタ(あるいはアグタ)族という狩猟採集民が川沿いの農村や貝採集の村や町の人びとと食料の交換、畑や田んぼの手伝いなどの相互依存関係をもとにして、日常的な交流をもちながら生活している。このような生業技術が異なる集団間での経済的、社会的、政治的な交流は、ラロ地域の過去にも当然想定されるものである。そこでこれら2つの集団がどのような相互関係をもちながら現在に到ったのかという歴史過程を、考古学的に明らかにする方法を開発中である。

 

非文明考古学:特定の人間集団の過去の栄光や輝きの提示は、考古学にとって未来への希望の創造として目的化されている。考古学者は自分の調査地域を「古代文明」、あるいはそれに近いものに擬することによって、「過去の輝き」を構築することを目的とする。その理由には、文明を理念とする国民国家と考古学が、同時期に誕生したことと深い結びつきがある。輝ける文明の壮大な歴史物語は、200以上存在する国民国家それぞれにおいて、「国民」の固有性、純粋性の連続として現在でも語り継がれている。しかしその一方で、文明の物語がとりこぼした歴史の断片も数多い。文明の物語は先進性を点と線で結んで紡ぎだされている。そして輝きの「感じられない」多くの歴史が語られることなく忘れられ、研究の対象となってはいない。しかし過去が「輝き」を発するか発しないかは、ジェンダーと同じように社会的に規定されたものである。狩猟採集社会の歴史も農耕社会が開始する1万年以降は、その本来的「輝き」は隠蔽され、研究の対象となっていないのが現状である。非文明考古学の提唱は、考古学者が過去の輝きや栄光に「目がくらんで」取りこぼしてきた、あるいは意図的に隠蔽してきた歴史を掘り起こす試みへの呼びかけである。

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