長沼直兄文庫について:全体の解説
2017.06.21 更新
ここに公開する「戦前?戦中?占領期日本語教育資料(長沼直兄文庫)」は、2011年6月、学校法人長沼スクール(旧:財団法人言語文化研究所)より寄贈され、東京外国語大学国際日本研究センターのプロジェクトとして電子化がすすめられてきたものです。そのうち286点は、すでに東京外国語大学附属図書館の学術成果コレクションとして公開されていますが、ここにはそのコレクションに収められた電子データを除く、公文書や報告書など関連の資料が公開されています。
日本語教育振興会は、「興亜院及文部省の意を受け、大東亜圏に日本語を普及し、日本語教育の振興を図るための諸事業の一元的組織的発展を期する目的(『財団法人日本語教育振興会 沿革及事業概要(昭和19年10月1日現在)』より)」で創設され、日本語教育に関する調査研究、日本語教科書の編纂、日本語教師の養成、機関誌『日本語』の発行を主たる業務としていました。戦時体制のもと、アジア地域への日本語普及を目的とする統括的な組織であったと言えます。
それにもかかわらず、戦後早期に、進駐した米軍から日本語教育について相談を受け、依頼を受けて1946年3月には「連合国軍正平に対する日本語教授者講習会」を実施しました。これは、日本語教育振興会の常任理事兼総主事であった長沼直兄が、1923年10月から1941年8月まで東京の米国大使館の日本語教員として、軍の語学将校向けの日本語教育を行い、そこで作成された『標準日本語讀本(全七巻)』((1931-34)が、戦争中のアメリカの陸海軍における日本語学校で教科書として採用されるなど、長沼直兄という個人が米軍関係者に信頼できる日本語教育者として認識されていたことによると思われます(河路2007)。
日本語教育振興会は、最後の理事長であった長沼直兄を議長とする1945年12月27日開催の日本語教育振興会の理事会で、「本年度の事業を終えたら解散すること」「財産を近く設立される財団法人言語文化研究所に譲与すること」が決定され、1946年度前期まで政府の補助金を受けて教師養成や調査研究(教材作成を含む)などを行います。1946年5月31日付で外務?文部両大臣より解散を許可され、同年7月8日、文部省?外務省共管の「財団法人言語文化研究所」の設立認可が下り、旧日本語教育振興会の書籍や書類を含む財産の財団法人言語文化研究所への譲与が実現しました。財団法人言語文化研究所は1948年4月に附属東京日本語学校を開校し、翌年6月に東京都より各種学校の認可を受けました。この学校は、戦後の日本において最初にできた本格的な日本語学校で、戦後の日本語教育の発展の牽引役となりました。これが現在の学校法人長沼スクールの前身となります。この財団法人言語文化研究所では、旧日本語教育振興会時代からの関連資料を長く保管してきました。
今回ここに公開します資料は、こうして日本語教育振興会から財団法人言語文化研究所に譲与されたものが改組で財団法人言語文化研究所が学校法人長沼スクールに変わるのを機に東京外国語大学に寄贈されたものです。
なお、同時に寄贈を受けた図書については、現在、東京外国語大学附属図書館のウェブサイトから、電子データで閲覧できるようになっています。
→東京外国語大学学術成果コレクション:「戦前?戦中?占領期日本語教育資料」
関連論文
河路由佳(2007)「長沼直兄による敗戦直後の日本語教師養成講座――1945年度後半?「日本語教育振興会」から「言語文化研究所」へ――」『日本
語教育研究』(財)言語文化研究所, 52号, 1--33,
河路由佳(2008)「長沼直兄らによる戦後早期の日本語教育のための調査研究ー1945-1946「日本語教育振興会」から「言語文化研究所」へ(その
2)-」『日本語教育研究』(財)言語文化研究所, 53号, 1--43,
河路由佳(2009)「1945?1946年「日本語教育振興会」から「言語文化研究所」へ-附属東京日本語学校設立前史の「通説」再考ーー」 『財団法人
言語文化研究所附属東京日本語学校60周年記念誌』(財)言語文化研究所, 71--98
河路由佳(2010)「長沼直兄(1945)『First Lessons in Nippongo』の成立と展開――長沼直兄の戦中?戦後―」 『東京外国語大学論集』, 81号,
113--132,
河路由佳(2012)「長沼直兄の戦前?戦中?戦後ー激動の時代を貫いた言語教育者としての信念を考えるー」『日本語教育研究』58号, 1--24,
長沼 直兄 略年譜
長沼直兄(1894?1973) 叙勲に際して 1975年11月
(年齢は誕生日後の満年齢)
西暦(元号) |
年齢 |
事跡(*印は関連事項) |
---|---|---|
1894(明治27) |
0 |
11月16日 群馬県伊勢崎市近郊に長沼宗雄の三男として誕生 |
1919(大正8) |
25 |
3月、東京高等商業(一橋大学の前身)卒業 |
1921(大正10) |
27 |
10月、2年近く勤務した貿易商社を退職、隣人のアメリカ人宣教師に頼まれて日語学校の臨時教師となる。 |
1922(大正11) |
28 |
5月ごろ、文部省語学顧問ハロルド?E?パーマーの東京高等師範学校における連続講演に出席。これが機縁となり親交を結ぶ。 11月、アントネット?ファルキーと結婚。 |
1923(大正12) |
29 |
5月 文部省内に英語教授研究所設立長沼直兄は幹事に就任し、所長パーマーを補佐。。(パーマーは1936年まで在任、講演、教科書作成のほか、NHKの英語放送を開始するなど、多方面で活躍。) 9月 関東大震災で日語学校焼失。同校の神戸移転を機に退職。 10月。パーマーの推薦で米国大使館日本語教官に就任 |
1925(大正14) |
31 |
パーマー著『The Standard English Readers for Beginners』に引き続き、『The Standard English Readers』の材料収集、「那須与一」などの英訳を担当。 |
1927(昭和2) |
33 |
協力してきたパーマー著『The Standard English Readers』(全5巻)完成。 |
1928(昭和3) |
34 |
12月、(株)開拓社の取締役に就任。英語教育、日本語教育関連の出版社。 |
1931(昭和6) |
37 |
『標準日本語読本巻一』刊行。1934年にかけて全7巻の刊行完成。(戦時下のアメリカ陸海軍で使われナガヌマの名を広めることになる) |
1939(昭和14) |
45 |
文部省より7月に臨時日本語教科書編纂の嘱託、12月に図書局事務の嘱託。 |
1940(昭和15) |
46 |
6月興亜院より中国蒙疆方面の日本語教育事情視察のため出張を命ぜられる。 |
1941(昭和16) |
47 |
8月 米国大使館主席教官を辞任。文部省内に「日本語教育振興会」が設立されるにあたって理事に就任。 |
1942(昭和17) |
48 |
9月、「日本語教育振興会」理事兼研究部主事に就任。南方派遣教員養成所で教授法を担当、外地向け教材作成に携わる。10月、『ハナシコトバ』『同学習指導書』刊行。12月財団法人 日本語教育振興会常務理事兼総主事に就任。 |
1943(昭和18) |
49 |
陸軍省、文部省の関連懇談会等に多く出席。文部省南方派遣日本語教育要員養成所講習会で「日本語教授法概説」を担当。12月 大東亜省支那事務局事務を委嘱される。 |
1944(昭和19) |
50 |
3月、「財団法人日本語教育振興会」認可に伴い常務理事文部省嘱託に。教材に関する関係官庁連絡会議に教科書編纂委員長として出席。8月、大東亜省嘱託にも就任。 |
1945(昭和20) |
51 |
2月『First Lessons in Nippongo』刊行。7月 大東亜省嘱託を解かれる。 10月 米軍の依頼により米軍将校に日本語を教え始める。 12月『Everyday Words and Phrases』(英語会話語彙)刊行、三省堂10万部 日本語教育振興会理事長に就任、解散を決定。 |
1946(昭和21) |
52 |
3月 連合国軍将兵に対する日本語教授者講習会にて特別講義を担当。「言語文化研究所」創立。理事長に就任。 4月 米第八軍「アーミー?カレッジ」教官に就任。 7月 外務省?文部省共管「財団法人言語文化研究所」設立許可。 |
1947(昭和22) |
53 |
1月 米軍総司令部顧問に就任、参謀第二課日本地区語学科主任に就任 |
1948(昭和23) |
54 |
4月 在日宣教師団?在日外国人有志の要請により財団法人言語文化研究所「附属東京日本語学校」を開校、校長に就任。『標準日本語読本』の全面改訂を進め、全8巻を刊行(非売品)。軽井沢分校開設。 |
1949(昭和24) |
55 |
中国から総引き上げの宣教師の大量入学など学習者急増のため千代田区神田と港区芝に分教場。野尻分校開設。 |
1950(昭和25) |
56 |
第一回「日本語教師養成講習会」その後毎年夏に行われ回を重ねる。 『改訂標準日本語読本』シリーズを開拓社より一般向けに刊行。 |
1952(昭和27) |
58 |
6月 渋谷区の現在地に新校舎完成、移転。 7月 講和条約発効、米国大使館日本地区語学校語学主任となる。 |
1954(昭和29) |
60 |
日本語教師養成講習会の修了者による「日本語教師連盟」発足。 |
1956(昭和31) |
62 |
欧米の外国語教授の実態視察。 |
1957(昭和32) |
63 |
健康上の理由により校長を休職。釘本久春理事、校長事務取扱となる。 |
1958(昭和33) |
64 |
視聴覚部を設けて視聴覚教育の研究?教材開発に着手。 |
1961(昭和36) |
67 |
6月 米国大使館日本地区語学校語学主任を辞任 |
1962(昭和37) |
68 |
校長に復職。森清と共著で『Practice Japanese』、同LPレコード3枚 |
1964(昭和39) |
70 |
3月 東京日本語学校校長を辞任。名誉校長となる。『改訂標準日本語読本』巻1より巻5までの再訂を始める。(1967年、「巻5」刊行により完成) |
1965(昭和40) |
71 |
11月3日 勲三等瑞宝章を受ける。 |
1966(昭和41) |
72 |
軽井沢分校を閉鎖。夏の日本語教師講習会は以後、渋谷の本校で1985年度まで実施。 |
1968(昭和43) |
74 |
6月 言語文化研究所理事長辞任。理事となる。 |
1973(昭和48) |
79 |
2月9日 心筋梗塞にて逝去。2月23日 正五位を贈られる。 実弟、長沼守人、言語文化研究所 理事に就任。 |
参考文献
河路由佳編(2009)「創立者 長沼直兄(1984-1973)年譜」『東京日本語学校開校60周年記念誌』(財)言語文化研究所附属東京日本語学校
(財)言語文化研究所(1981)『長沼直兄と日本語教育』開拓社
(附記)
本資料公開にあたって、内容に即し以下のように分類しました。
(1) 日本語教育振興会関係(1941~1946)のもの
(同機関に集められていた同時代の他機関の書類?報告などを含む)
(2) 戦争直後の日本語教育振興会から(財)言語文化研究所への移行(1945~1946)に関するもの
(移行期の教員養成講座資料や作成教材、移行時の事務書類を含む)
(3)その他