2013年6月 月次レポート(佐藤貴之 ロシア)
活動報告書(6月)
派遣先:ロシア国立人文大学大学院
執筆者:佐藤貴之
今月は、5月22日に派遣先大学が主催した大学院国際研究会に提出する論文の修正作業のほか、7月20日に東京で開催されるスラヴ人文学会で報告する論文の発表準備をおこなった。
執筆者は5月22日に派遣先大学で開催された大学院国際研究会で拙論「ブルガーコフとピリニャークの創作の接点:『裸の年』と『ハンの炎』」を発表した。ブルガーコフとピリニャークの関係に関しては、拙論「M.ブルガーコフの戯曲におけるソヴィエト作家の喜悲劇的表象」(世界文学研究所に提出)でも取り扱った。ただし、この論文では、1930年代以降にブルガーコフが執筆した戯曲におけるピリニャークの表象を分析したのに対し、大学院国際研究会で報告した拙論では、おもに1920年代の前半におけるピリニャークとブルガーコフの対立を分析した。
ピリニャークとブルガーコフはともに同伴者作家であり、革命後のソ連にはとどまりつつも共産主義のイデオロギーには与さなかった作家たちであり、公式文学の陣営からは熾烈な弾圧をうけていた。過酷な境遇から、同伴者作家同士はしばしば協力的関係を築いた(たとえばブルガーコフとザミャーチン、ザミャーチンとピリニャーク)のに対し、ブルガーコフはピリニャークに対して強い嫌悪感、反感を抱いていた。
ブルガーコフが1923年に執筆した『ハンの炎』Ханский огоньはピリニャーク創作に対するアンチテーゼとして執筆された作品である。詳細な分析は省略するが、ピリニャークは十月革命を民族意識の表出として賛美し、革命の破壊的なダイナミズムに身を任せた。その結果、ピリニャークの創作には移動(列車、放浪)のテーマが顕著となり、「家」は極めて否定的なイメージで描かれることとなった。『裸の年』や『遺産相続者』といった作品からも明らかな通り、「家」に留まろうとする登場人物たちはそのまま破滅するのに対し、「家」を捨て、移動、放浪を選択する人物たちには「生」が与えられる。革命後は内戦が生じ、都市は壊滅の危機に瀕し、人々は絶え間ない逃亡、あるいは移動の日々を送っていた以上、ピリニャークの創作世界は当時の時代精神が反映されたものであったといえる。しかし、ブルガーコフは伝統、あるいは「家」を守り抜こうとした作家であり、ブルガーコフにとって「家」は文化の基礎であると同時に、生命の源であった。ブルガーコフはソ連にとどまったものの、革命のダイナミズム、あるいはその破壊性には極めて否定的態度をとっていた。そしてその批判の矛先は同じ同伴者作家であるピリニャークに向けられたということができる。
来月の20日に控えるスラヴ人文学会では拙論「ブリヤート文学における日本とロシアの文化的統合:境界の詩人N.ニンブーエフ」を報告する。こちらの論文は今年の冬に執筆したものであり、まだ未提出の段階であった。従って、資料収集を再開し、指導教員の沼野教授から頂戴した指摘を反映する作業をおこなった。
今月の作業では、「雪解け」(スターリン死後に生じた体制の民主化)以降におけるシベリアの文化現象に関する資料収集を行った。なかでも、ブリヤート文学研究者の著作を中心に読了し、必要と思われる先行研究の見解を論文に反映する作業を行った。その中で、T.ドゥガルジャーポワ著『ブリヤートの詩学』(2002年)、E.バルダンマクサーロワ著『20世紀のブリヤート詩:源流、ジャンルの詩学』(2005年)などの研究書からは極めて重要な視点を得ることができた。また、ニンブーエフに影響を与えたとされるブリヤート詩人D.ウルズィトゥーエフ、N.ダムヂードフの作品を分析し、ニンブーエフの創作との関連性を考察した。
以上。