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2011年1月 月次レポート(横田さやか イタリア)

月次レポート 2011年1月 
博士後期課程 横田さやか 
派遣先:イタリア、ボローニャ大学

 今月の半ば、トリノ劇場バレエ団による作品Caravaggio (初演2004年、イタリア)を、ボローニャの劇場、アレーナ?デル?ソーレにて鑑賞した。マッテーオ?レヴァッジ振付演出によるこのバレエは、おそらく余りに偉大であるが故にバレエの題材として採用されることのなかったカラヴァッジョの作品とその劇的な生涯に着想を得たもので、8人のダンサーにひとりのソプラニスタが加わって演じられる。舞台美術は極めてシンプルで、中心に金色の円が描かれた真っ黒の衝立てのみである。それは、まさにカラヴァッジョの絵画の、漆黒の陰にさらに黒で描きこめられた闇の部分と観賞者の焦点が辿り着く先の光りの部分とのコントラストを想起させるし、また、中心に光の孔の空いたカメラ?オブスクラをも想起させる。舞台に当てられる照明も一貫して淡い色合いを保ち、揺れる蝋燭の灯りが踊り手の身体に陰を描いているかのようである。バレエは、ジョヴァンニ?ソッリーマがこの作品のために作曲したバロック調の音楽を伴う。ソッリーマは、幼少時からこの画家の作品に対峙するたびに、カラヴァッジョが自らの絵画にBGMとして"音入れ"していたかのように、音楽をそこから感じとっていたのだという。パ?ド?ドゥ、パ?ド?トロワ、そして群舞と、様々に編成を変えながらダンサーたちはひたすら踊り続ける。クラシック?バレエの基礎のうえに成り立つ激しく機敏な身体の動きは、まさに身体美と呼ぶにふさわしい。光と闇。音と身体。加えて激動の生涯というプロット。考えてみれば、カラヴァッジョこそバレエとして演じられるにうってつけの、可能性を秘めた主題であるといえるだろう。今回の公演では、男性ダンサーたちの表現力、技術力そして身体美すべてにおける完成度の高さに感心させられた。若いがゆえに荒削りに見える要素すら表現性としてプラスに機能していた。一方で女性ダンサーたちには首を傾げさせられ、非常に残念な思いが残った。かつての舞台は女性ダンサーの層の厚さ故の質の高さという現象が当然のことであったが、それが逆転しているのかもしれない。今後、この演目がいっそう洗練されていくことを楽しみにせずにはいられない。
 こうして、舞台鑑賞に時間を割くことは、研究テーマへの知識を深める作業として欠かせないだけでなく、常にアンテナを敏感に張って研究に取り組むための力強い励みになる。同じくダンスを専攻している学生たちと、鑑賞した舞踊作品について話をすることも非常に良い刺激になり、彼らを見習い積極的に劇場に足を運ぼうと背中を押される。
 研究の進捗状況については、先月の国際セミナー後から引き続き、研究発表でのテーマを再編成、発展させる作業に取り組んでいる。指導教授であるチェルヴェッラーティ教授からは、完璧に書き上げたものを提出しようと意気込まずに途中段階で助言を求めることを躊躇しないよう励ましていただきながらご指導を仰いでいる。具体的には、「踊る身体と飛ぶ身体」を考察するにあたって、参考文献をひたすら再読し、報告者の論点を強化するための題材をまとめるような処理作業が主になっている。論考をここに簡単に抄出する。背に羽を着け、ポワントの技術の訓練によって軽やかに空へ浮かぶように踊ってみせたマリー?タリオーニ(1804-1884)、空中での機体の動きを模倣することでアクロバット飛行を踊ってみせたジャンニーナ?チェンシ(1913-1995)、両バレリーナをつなぐのが飛行技術の発展だが、この点からすると、20世紀初頭の航空ショーのポスターに、大きな羽根を生やした女神像が空中に舞い上がり飛行機を誘導しているかのように描かれたことは象徴的である。同時代にフェミニズム運動が生まれ、女性の自我と身体性が見出された。サモトラケのニケがしばし強い女性像の象徴として取り上げられるように、ロイ?フラー(1862-1928)が好んで用いた、大きな布を広げたポーズもニケを彷彿とさせる。勝利の女神は羽根のある踊る女性像となるのだ。そして、「未来派宣言」(1909)には、速度の美によってそれを凌駕することが謳われる。「咆哮する自動車は『サモトラケの勝利』よりも美しい」と。この後にチェンシの踊る、妖精でも女神でもなく飛行機の羽根を羽ばたかせるダンスが生まれるのである。
 ボローニャは今月末さらに大雪に見舞われ、まだまだ極寒の日々が続く。来月は上記の論考の執筆に専念する予定であり、何よりもまず寒さに負けない健康を保つことが課題である。

 

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